誰も消してくれないのだろう?

このブログを始めた昔に、違和感のある「わたし」という一人称を選んだことを思い出す。今ではもう、「わたし」も相容れない。人称を体が受け付けない。「わたし」は、もはやわたしでも俺でも僕でも自分でもなくなってしまった。

すり減らしてもすり減らしても、まだ無くならない。だいぶ痩せてはきたのだけれど。下手が研いだ包丁のように。

いつも言葉を探している。そして探していたのが言葉ではないことに気づく。

なぜかその籤は、間違いなく引く気がした。わけのわからない確信があった。

なってしまうことに、身を委ねられないできた。なりたいと思わなくはなかった。だが、なってしまうままに「なる」ことに反発があった。だから抵抗してきた。
まだ、なれるのだろうか?

探す。

掃除する。

夢を見る。通り過ぎていった物事、恩をうけたままの。
もう会うこともなくなってしまった。あなたは、やはり自分の物語を書かなければならないと思う。あなたの貿易商だった父のことであれ、結局はあなたの物語になる。

周期的に、消えたいという思いに襲われる。全部、消えてしまいたい。ドーナツの穴が内側から侵食するように。サーチライトをあてられた影のように。

語ると言うのは非常に個人的な行為です。誰かのために、語るのではありません。自分のために語るのですらありません。だいたい、もう自分と言うものがほんとうにあるのか、語る時にはわかりません。でも、だからこそ語れるのです。まだ言葉ではないものを鋳ることができるのです。そして物語を消せるのです。自己実現を垂れ流すのは結局くだらないと思う。実現することがなくなってから気がついたようなものだが。

一昨年に、だからきみたちは選挙に行くべきだと言った。国を捨てて逃げられる財や力がある人々にその必要は無い。あるいは権力がどうあれ、それに殴られても構わないならよい。だが、まだ、逃げられないなら、その暴力に参加した方がいい。

後ろと前の一歩を数える。
前の数歩。もしまだ先にも存在しているならば、嫌でも、まったく知らないひとたちに囲まれて死んでいくのだろう。現代の大多数のように、そうした、死がbehaveする施設で。ひとりひとり周りから知っている人が失せていく。やがて、この体も。まだ体温があるうちは、そんな施設で数年を。
後ろの数歩。つかまなかった金と手と力。椥辻駅前のスーパーには地元の農家が小さな小さな漬物屋を間借りして、たったひと樽だけの糠床でやっていた。浅漬けも古漬けも茄子もきゅうりもみな百円だった。古漬けはあまりに漬かりすぎきつい酸味がだめだった。浅漬けより一日二日過ぎたのを買って齧った。ぜいたくに一本をまるごとそれが幸せだった。そうだ、あのころにはまだしあわせという感覚があった。

どうして、誰も消してくれないのだろう。

言葉を拾う。これからは言葉を拾おうと思う。