美学

木曜の朝もそうしていた。
店内で一番窮屈なカウンター右隅に身体を沈めて、そうしないと入らないのだろう斜に開いた大柄の胴体から繋がる脚を大仰に組んでいた。上等な生地であつらえた太いズボンから硬く尖らせた靴を覗かせ、シャツの襟はしっかり締めて、全て規則通りのきちんとした格好よさを愛する人だった。
あらゆる時代を錯誤していた。
彼の美学は、常に一貫させようとすることで破綻していた。大真面目に恰好よくしようとすることで、その大真面目さが滑稽さを誘った。だが滑稽にしか見られないそのスタイルを大真面目に貫くことが、彼の「格好よさ」だった。
世代の割に大柄な身体とスポーツに裏打ちされた屈強な肉体は、ひとつひとつの「紳士らしさ」から常にはみ出したままだった。健康すぎるまでに焼けた肌は土色で、筋肉の盛り上がった首筋にごつごつと彫りの深い愛嬌のある顔が載っていた。可愛らしい目をしていた。鼻筋もしっかりと通っていたが、巨大な頭が身体全体のバランスをいつも戯画的なものにした。
普通の髪型をしていたら、実際ハンサムだったと思う、たぶん。少なくとも若い頃は。
彼は頭部の体積をさらに強調するように、毎朝毎朝丁寧に整えた、立派なリーゼントを載せていた。二十年は昔から、その髪型だった。私が喫茶店の扉をくぐると、斜にした胴からリーゼントの先をこちらに向けて、コーヒーの臭いと煙の味のする低い短い挨拶を静かに吐いた。
周囲からどれだけ滑稽に見られているかをよく知っていた。知った上で小さく微笑んで大真面目に自分の格好よさを貫いた。そのように見る誰をも許した笑みだった。白いスーツと濃いシャツと太い首と太い脚とリーゼントがカウンターの隅にいて、煙草の煙を吐きながら自分で持ってきた土産物の菓子を食べていた。
褒められると、子供のようにはにかんで喜んだ。何の義理があるわけでもないのに、多くの人の世話をしていた。私も、ただその喫茶店でたまに顔をあわせるというだけで。恩を着せることもなく、教えを受けた帰りの昼食であちらこちらと御馳走になった。お金を出そうとしても、なかなか出させてはくれなかった。木曜、彼の車から降りて礼を言うと、おう、と短く残して去って行った。
なぜなのか?
帰りの車中では(昔の話をする時以外では)珍しく饒舌になり、ちょっとした自慢と、それから私の出来を褒めてくれた。暑苦しい人だった。教えを受けること自体は、半ば押し付けられたようなもので、ありがたい反面、困ったところも多かった。親切で、暑苦しく、優しかった。
けっして傍若無人になることはなかった。どっかり主張するような座り方はしなかった。右隅の彼の場所は、一つには店主とのやり取りを好んだからで、もう一つには他の客の邪魔にならないためだった。常に脚を組んで、煙草をくゆらして、傲慢にも卑屈にもならずゆったりとそこにいた。
しゃべる方でもしゃべらない方でもなかった。人懐っこく、面倒見が良かった。好き嫌いは激しかったが、嫌いな人にも変わらず接していた。そしてそっと離れて行った。
彼が格好よいと思うものを、誰も格好よいとは言わなかったが、それを知ってなお彼は自分の恰好よさを曲げなかった。何事も。その姿勢は、確かに、恰好よくもあった。リーゼント、煙草を吸うこと、スポーツや体格、筋肉、健康、弱音を吐かないこと、ドローボールが打てること、言い訳をしないこと、人に当たらないこと、意地悪をしないこと、誰かの失敗も自分が引き受けること、それでも言い訳をしないこと。など。など。
迷惑をかけることと、それ以上に、自分のために誰かが自責や悔いを持つことを嫌った。そうしたことを思わせないようにするためなら、笑ってそれを呑み込める人だった。

木曜の朝、丁寧に整えたリーゼントでそこにいた。たぶん、二十年前、三十年前、四十年前の木曜の朝も、同じようなリーゼントで。土曜の朝に、いつものように髪を整えて歯を磨きながら、彼はその洗面室で倒れた。
そうして自分の美学を貫いたまま、その日のうちに彼は去った。

誰も消してくれないのだろう?

このブログを始めた昔に、違和感のある「わたし」という一人称を選んだことを思い出す。今ではもう、「わたし」も相容れない。人称を体が受け付けない。「わたし」は、もはやわたしでも俺でも僕でも自分でもなくなってしまった。

すり減らしてもすり減らしても、まだ無くならない。だいぶ痩せてはきたのだけれど。下手が研いだ包丁のように。

いつも言葉を探している。そして探していたのが言葉ではないことに気づく。

なぜかその籤は、間違いなく引く気がした。わけのわからない確信があった。

なってしまうことに、身を委ねられないできた。なりたいと思わなくはなかった。だが、なってしまうままに「なる」ことに反発があった。だから抵抗してきた。
まだ、なれるのだろうか?

探す。

掃除する。

夢を見る。通り過ぎていった物事、恩をうけたままの。
もう会うこともなくなってしまった。あなたは、やはり自分の物語を書かなければならないと思う。あなたの貿易商だった父のことであれ、結局はあなたの物語になる。

周期的に、消えたいという思いに襲われる。全部、消えてしまいたい。ドーナツの穴が内側から侵食するように。サーチライトをあてられた影のように。

語ると言うのは非常に個人的な行為です。誰かのために、語るのではありません。自分のために語るのですらありません。だいたい、もう自分と言うものがほんとうにあるのか、語る時にはわかりません。でも、だからこそ語れるのです。まだ言葉ではないものを鋳ることができるのです。そして物語を消せるのです。自己実現を垂れ流すのは結局くだらないと思う。実現することがなくなってから気がついたようなものだが。

一昨年に、だからきみたちは選挙に行くべきだと言った。国を捨てて逃げられる財や力がある人々にその必要は無い。あるいは権力がどうあれ、それに殴られても構わないならよい。だが、まだ、逃げられないなら、その暴力に参加した方がいい。

後ろと前の一歩を数える。
前の数歩。もしまだ先にも存在しているならば、嫌でも、まったく知らないひとたちに囲まれて死んでいくのだろう。現代の大多数のように、そうした、死がbehaveする施設で。ひとりひとり周りから知っている人が失せていく。やがて、この体も。まだ体温があるうちは、そんな施設で数年を。
後ろの数歩。つかまなかった金と手と力。椥辻駅前のスーパーには地元の農家が小さな小さな漬物屋を間借りして、たったひと樽だけの糠床でやっていた。浅漬けも古漬けも茄子もきゅうりもみな百円だった。古漬けはあまりに漬かりすぎきつい酸味がだめだった。浅漬けより一日二日過ぎたのを買って齧った。ぜいたくに一本をまるごとそれが幸せだった。そうだ、あのころにはまだしあわせという感覚があった。

どうして、誰も消してくれないのだろう。

言葉を拾う。これからは言葉を拾おうと思う。

図書館が焚かれようとも

語るのも読むのもまたそれぞれの a Lonely Business なのだろうか

In the sweat of thy face shalt thou eat bread,till thou return unto the ground;
for out of it wast thou taken:for dust thou art, and unto dust shalt thou return.

ヒトはFrom the Dust Returnedとはいかないが、言葉は何度も何度も帰るだろう

たまに、今なら魔法が使えると思うことがある。そしていつも、つかみ損ねてしまう。

たとえとして出すにもあまりに不遜だが、「キューブラ・カーン」の最後、詩人がかろうじて捉まえていた危ういイメージがコールリッジの手からふいとこぼれ落ち、ここで書き終えるしかなかったのだという、その伝説を思い出す。

911再び

はてなでブログを始めたばかりの頃に911のことを、二台目の飛行機が刺さるのを生中継で見たことを、書いたことを思い出した。あの911で何より鮮明に覚えているのはビルから突き出た飛行機の胴体でもなければその後崩壊した貿易センターでもなく、人々の顔だった。このニュースが世界に飛び回るやアラブの人々は歓喜し、口々にアッラーフアクバルを叫び、熱狂した。あの表情はいまだ言葉でうまく説明ができない。人間の顔としておよそ見たくない表情でありながら、目をそむけることはできなかった。
その同じ表情を、またTVで見ることになった。911の跡地に集まった群衆、ワシントンに集まった群衆、口々に聖句を連呼し、なにか流行病に冒された家畜の群れのように。聖句の文字は違えども、同じ神に熱狂しているのだろう。