彼女からの距離感

 9/15「銀灰の遠景」の続き。


 それから彼女は毛布を着込むと声を取り戻せないでいるわたしに飛び石の言葉で語るのだった。彼女が夢中になっていること、夕方一緒に食べたフレンチについて、阪急の最近の混み具合、映画、好きなクラシック、特売の下着を買ったと言ったら彼氏がひどく怒ったということ――そういうことは、たとえ買っても男に言ってはいけないらしい、自分の妹のこと、プールに行きたい、よく読む雑誌バス乗り場にいた老人のふろしきチョコレートのおいしい神戸のお店けど球技は苦手で運動神経はそんなによくないのドッチボールが怖かったこわいはなしはすきえいがかんとかあまりいかないのきょうごくのえいがかんこうじまだおわってないのねあそこむかしさぶうぇいがあったんだけどあれこれあれこれあれこれあれこれ
 話題は次々変わるのだが、たまに数拍わたしの反応を期待した休符を挟む以外には、ほとんど止まることもなくこの頃の彼女は喋り続けた。思いつきにまかせて絶え間なく、だがそれでいてけっして大きな声ではなく感情的になることもない。ただこちらを見つめながら、たいていわたしの手の平を交差するように握っていた。何かを声に出していないとわたしが消えてしまうかのように、恐らく彼女も救われたかったのであろう、だがわたしは何も応えられなかった。あいまいにうなずいて見せたり、ああ、とか、うん、とか中途半端に、良くても二言三言、ラフマニノフは好きだよ、などと渇いた喉から言葉を出すのがやっとだった。わたしの見つめていた距離を彼女も感じていたのだろう。わたしは何かを叫ばなければならなかったのだろう、何かをまだ言えたうちに、この春先からわたしの調子はどんどん悪くなっていく。そんなふうに話し続ける彼女を置いて、わたしはベッドから離れて座りいつも煙草に火を点けた。彼女はどうしていただろうか。わたしが煙草を吸い始めると、黙ってしまったこともある。意にも介さず喋り続けたこともある。いつもわたしは煙を天井に垂らしながら曖昧な目で彼女の胸元を見ていた。煙草を吸うと肌が乾いた。うぶ毛の先まで凍えていた。ある時彼女はライターを鳴らすわたしの方にぶ厚く突き出た肩甲骨を見せて転がり、枕元の携帯を取ってメールを始めた。半時間ほどそうしていただろうか、何通かやりとりしてたのだろう、ときどき彼女の受信機が音を殺してぶーんと鳴った。数本煙筒を灰にしてすっかり冷えた身体を戻すと、彼女はあわててごめんと言ってアンテナを閉じ凍ったわたしの手を握り込んだ。何かを待つように彼女はわたしの手を見つめてしばらく黙ってさすっていた。わたしはずっとそうされていた。こわばっていたわたしの手を解凍しようとするように彼女は両手で自分の胸に押し付けて、ようやくいつもの取り留めもない話を再開した。わたしは遥か遠くからなお響く確かな信号音を感じていた。役所の面倒な手続きのこと、母親と折り合いが悪いこと、前髪を気にしていたのか枕の上で上下に頭を振りながら、ときどきまぶたを大きく上げて、彼女はそんなことを語っていた。何を話そうとしていたのだろうか、いつものように次の話題に跳ねようとした時、カタカタと軽快にステップを踏んで携帯が踊った。言葉を出しかけた口をためらいがちに閉じ、目だけをそちらに一回遣って、再び話を続けようとした。覗き込むように彼女を見ると、くちびるを結んで首を横に二度三度とゆっくり振った。それきり彼女は黙ってしまった。しばらくしてまた器械は鳴ったが、わたしの手の平を抱いたまま今度はそちらを見もしなかった。彼氏と別れることにしたのと彼女は告げた。何かを言うべきなのか、それとも黙っているべきなのかすら、わたしには分からなかった。彼女は十ほど年上の東京の中堅サラリーマンとつきあっていた。収入も立場もなかなか安定しているのだと聞いていた。だが関西と関東に分かれてうまく気持ちの整理がつかなくなったのだという。それでも滅多にないほどよい条件の相手なのだし、なぜ、と聞くと、彼女は何も言わずに両手の力を強くした。せめてキープするだけでも、とわたしは述べた。もう決心して別れも告げてしまったのよ、と彼女は笑った。別れたい、もう会いたくない。そう告げるとしばらくゴネられた後で、別れるのはかまわない、でも時々会ってセックスしたい、そう言われたと彼女は自嘲し再び笑った。


9/18「誰でもない彼ら」に続く。