本と寝る生活

 昨日は朝まで本の整理をして疲れ果てそのまま寝てしまった。なのにまだ半分も終わっていない。いったい何冊あるのだろうか、もう五年程前、まだ今の半分以下しか本がなかった頃に、こんなに本を置くと床が抜けると人に言われた。それから倍は増えているがまだ床は無事である。恐ろしさ半分、面倒さ半分でどのくらいか数えたことはない。だが千ではきかないのは明らかだ。
 本が増えていくには段階がある。独り暮らしの大学生の部屋を何人か見せてもらったことはあるが、ごく一部の例外を除いて百冊以下、マンガや雑誌を入れたところでざっと見ただけで数えられる程度の分量である。多めな人でも百を越えるくらいである。もちろん、中には本当に数人だが、なんというかわたしと同病の人はいて、総数が分からないくらいに持っていたのもいる。わたし自身もそうだが、当然本棚に収まり切るわけはないので床に平積みになっていたり、ダンボールに詰めて積んであったりもするのだが。
 文学専門の研究室にいるためか、周りにはこの手の人が世間よりも多いようだ。先日引越しをした先輩は、本を詰めた引越し用のボール箱が三十弱ほど出たそうだ。そこまでは行かなくともみんな平均的二十代から比較してかなり多めに持っている。後輩の女の子が背の高い本棚二つ分あると言っていた。過去わたしの知る限りでは、女子大学生でそんなに本を置いている人はいなかった。たいていは棚の中のほんの一箇所のスペースにちょうど収まりきる程度、二十かそこらのことだろう。多くとも中程度の本棚一個というくらいだ。そんな部屋を男に見せたら彼氏は引くよ、とちょっとセクハラしてみたら、普段は女らしさなんてなによという感じの癖にひどく傷ついた顔をしていて面白かった。
 しかし面白がっているわけにもいかない、他人事ではないのである。男だからマシとはいえ、さすがにこの量は普通に引く。引かれたことは何度もある。年に数回、すぐには必要にならない本を箱に詰め実家に送り返していたが、これでは焼け石に水である。独り暮らしの女の子とつきあうと、やはり互いの部屋を行き来するようになり(どちらかと言えば、わたしは飼うより飼われる方であるのだが)、相手の下宿に自分の私物を置くようになる。歯ブラシなどのトイレタリーは言うに及ばず、そういうことのどれだけ少ない人であっても着替えのいくつかや普段自分が良く使う仕事道具や趣味のものを多少は置いたりもするだろう(わたしの場合はここに灰皿とライターが加わる)。当然だが本も増えていく。なるべく買わないようにはしているし、まめに持ち帰っているつもりなのだがなんだかんだで蓄積される。古本屋の集まる町の一角に住んでいた女の子などもいた。アパートで一人彼女の帰りを待つのが暇で、ついつい出かけて文庫を買い込み読んでいた。夕食の材料を仕入れるついでに寄ったりもした。帰りを待ちながら料理をしつつ、ひたすら読んでばかりいた。近くに本屋のある子ばかりではなかったが、たいてい賃貸物件があるようなところには、レンタルショップがあるものだ。そしてそうした店には特に郊外であるほど本屋がついている。彼女がCDを見ている間に、下の本屋で数冊買ってしまったり、電車などで行くならば駅にはたいてい本屋がある。彼女のアパートに行くまでに読もうと思って本を買う。一冊だけならよいのだが、本屋に行くとわたしはたいてい数冊買う。そういう習慣になのである。どうしても一冊だけで済ませることができないのだ。平均十冊は買うだろうか。行きの電車の中で読みきるわけもないのだが。その中の数冊は彼女の部屋で宿便となる。情けないのは別れる時のことである。まだデパートなどで渡される大きな紙袋いくつかに入りきる量であるならよいのだが、大量の本を抱えて捨てられて、とぼとぼ一人で彼女の部屋を去ることになる。数箱の本を抱えて雨の中路頭に迷い、タクシーのトランクに載せてもらって帰ったこともある。エレベーターのないアパートの五階に親切な運転手さんが手伝って運んでくれた。一人になって整理しようとあけてみると、トランクのふたが閉まりきらなかったせいだろう、中身の本までぐしょぐしょに濡れて、覚えている限りでは一番情けないフラれ方だった。
 いったい現在どのくらい本がこの部屋にあるのだろう。千ではきかない、と先に書いたがこれはちょっと適切でない。小学生を越える子どもが三人いるようなご夫人に、二十歳ではきかないと言うようなものである。例えば千と二百や三百なのであれば、二十代前半くらいの人が二十歳といっても通用するようなところがある。実際を知ってる人は他意無くくすくす笑いもしようがあまり気にしない範囲である。これが二十五を越えてくると、やはり無理は出始める。くすくす笑いにも困惑が混じり、ひじで小突きあったりもするが、初対面でそれを口に出すことはできない。三十越えるとあつかましい。みんな分かっているのだが、ツッコんでいいのか戸惑わさせるところがある。知ってて言うのが厚顔だ。とても二十歳でないことくらいみんな分かっているだろうが、誰もそれを口には出せまいという計算がある。四十越えると芸になる。これはみんなでツッコまねばなるまい。流してしまうのは失礼に当たる。
 さてわたしの本であるがいったいどのくらいあるのだろう。雑誌とマンガをのぞいたところで千は余裕で越えている。収納場所の問題もありわたしはできるだけ文庫で買う。古書もまったく気にしない。聞いた話では学生は普通、半分程度がハードカバーであるそうだ。わたしの場合は非常に少ない。全体の一割二割であるだろう。ほとんどが文庫か新書、ペーパーバックなのである。ハードカバーを買うとしたらそれでしか手に入らないものか、あるいは文庫化前の新刊をどうしても欲しい場合に限られる。その他ペーパーバックに一見は似た柔らかい表紙の大判本というのもある。こうしたものは文庫サイズになることはほとんどまれで、このサイズで買うしかない。後は図版が大事なものや、よほど古本屋で安かったか、滅多にないがどうしてもハードカバーで欲しかったものだけである*1。それ以外は文庫である。そしてこの文庫が多い。本棚の一つのボックスに、上下に二段、奥と手前に二重に入れて、ざっと80は入るだろうか。本棚全部で20ほどボックスがあるのだが、見えているだけでそのうち五つは文庫である。本棚だけで文庫は四百を越えるのか。それに業務用の大型箱に詰め込んだものがぱっと見ただけで十以上。箱詰めにするのはたいてい文庫のみである。一箱100は入ってるはずだ。これだけで1000はあることになる。箱に詰めたままいろんなとこに押し込んだり、並べた酒ビンや調味料の台にしていたりするわけで、探せばもっと出てくるだろう。当然持っているはずの本がどこに行ったかわからなくなることなどは毎日起こる出来事である。さて本棚にも入らず、箱に詰めたところで箱自体の置き場も無く、ただ床やその他の場所に平積になっている分がある。実はこれが一番多い。床や四角いちゃぶ台の上下は当然として、洗面所の入り口の左右、冷蔵庫の上(いっそ中に入れようか)、流し台の本来ならば洗った食器やまな板を置くべき所、いろいろな隅に鎮座する段ボール製の自作本棚(この中の分を数えてなかった)のさらに上、箪笥につるしたジャケットの下、デスクの下のコンピューター用品の横などに、カビがどこにでも生えるが如く平積み本が並んでいる。プリンタの上にも本が載ってしまっているので、印刷する時はこれをどけなければ紙が出ない。ディスプレイと本体の間にも本が数冊挟まっている。食器棚は下半分が本棚になってしまっている。一番ひどいのは壁際だ。最初は床から塔が数本、腰くらいの高さにまで並んでいたのだが、すぐに塔と塔の隙間が無くなり、互いに支えあうので背丈ほどの高さにまで積んでも崩れないようになり、やがて塔は壁になり、壁はなだらかに傾斜する山に化けた。これのおかげで両開きの押入れの扉は片方しか開かなくなり、台所と寝室を隔てる戸は途中までしか開かない。一時は太った人なら通れないほどの隙間しかなかった。身体を横にして左手から、この隙間をくぐって寝室に出入りしていたのだ。
 果たして総数いくつの本がこの部屋にあるのか見当もつかない。千、これは余裕で越えている。二千、まだまだ十分あるだろう。三千、このあたりから自信はないが恐らく越えているのではないか。四千、無いと信じたい。ここにマンガや雑誌を加えて、それでも五千は達していないというのがわたしの感覚である。床のことを考えると本当にそろそろマズい。なんとかすることを考えねばなるまい。

*1:エンデ「はてしない物語」など。絹装丁のハードカバーでなければ意味は無い。実際には文庫化前に手に入れたので選択肢もなかったのだが