忘れられなかったもの

 上の記事で引用させていただいたtetsu23さんの日記において、夢を忘れてしまうこと、そしていつまで経っても覚えている夢について書いておられた。夢に限らず、忘れるというのは不思議なことだと思う。わたしは異常に忘れっぽい。反面、いつまでも覚えていることもある。
 たぶん程度問題で、誰でもそこそこはできると思うのだが、わたしは昔から写真記憶(映像記憶)がちょっとだけできる。ちょっとだけというのは、記憶する対象をほとんど自分で選べないということだ。だから勉強など実利のあることにはまったく使えはしないのだ。ただ偶然に選ばれたような、ほとんど意味のないような、ある瞬間にわたしの瞳の中に飛び込んできた光景を、頭蓋の金庫にしまったアルバムに整理したかのように、画像として覚えこんでしまうのだ。時々こういうことが起こる。老化だろうか、十代の頃に比較して最近では少なくなったのだが、それでもたまに写真が焼きついてしまうことがある。だが脳裏に焼きつくと言うクリシェがあるように、こうしたことは結構誰でもあるのではないか。珍しいことではないような気もする。その頻度が多少高いという程度だろう。そしてまたこの延長線上に、目にした風景をほとんどなんでも覚えこんでしまうという、異常な能力を持った人もあるのではないだろうか。
 こうして記憶してしまった光景の中には思い出すのが痛いものも数あるし、なぜこんなものを覚えているのかまるで分からない馬鹿みたいなものもある。読書中のこともある。学校のこともある。昔受けた演習の授業中、開いた本のページと、それを置いている机、天井の蛍光灯を遮るわたしの頭が影を落としている。ページには文字が並んでいるのだが、読むのは難しい。うまく説明できないのだが、何というか、頭の中で一生懸命その文字を注視しようとしないと読めないのだ。これは非常に疲れてしまう。そんなことをするよりも、本を開いたほうがはるかに建設的だろう。
 映像が一枚の写真ではなく、ほんの短い間だが、動画で記憶されているものもある。もちろん、これがほんとうに動画といえるのかわたしには確証がないのだが。一枚か、あるいは前後する数枚の絵を元に、思い出す時にそれを動画様のものに編集しているだけなのかもしれない。それを裏付けるように、こうした動画の記憶には、音がついているものはない。一枚絵としての記憶には、たまに音がついているものがある。短いもの、ちょっとした長さのあるもの、さまざまだ。その記憶の時に実際に鳴っていた音であるのかは分からない。どうもとてもそうは思えないようなものが多くある。まったく関係ないのではないか。
 音よりもむしろ、変な話と思うのだが、匂いのついた記憶の方が多い。半分以上のこうした記憶に何かの匂いがついているのではないか。音と同じように、その時に実際嗅いだ匂いかどうかはわからない。匂いはの記憶は、これは何の匂いだと名指すことができないようなものが多いので、結局確かなことは分からないのだが。
 なんにせよ記憶は分からない。どれだけ意味のないように思えることも、それをいまだに覚えているということは、何かわたしにとってだいじな意義があるのだろうか。覚えておきたいことも、あるいは覚えておいたほうがよいというようなことも、わたしはすぐ忘れてしまうというのに。わたしは非常に忘れっぽい。冗談にもならないが、両親の顔すらぱっと思い出すことができないのだ。
 夢にしても同じようなものだ。tetsu23さんも書かれていたように、なぜそれを忘れるのか、またなぜそれを覚えているのかわからない。それ以上に分からないのは、そうして見た夢を、なぜどうしても語らなければならないこと感じるのであるのかだ。すべての夢を語るべきことと感じているわけではない。だがその中には、どうあってもそれを語らなければならないものが確かにある。たいてい文字にしてみても、あまり意味のないような、単純でくだらない、馬鹿みたいなことばかりである。なぜそれが選ばれたのかまったくわたしにはわからない。だが確かに、語られなければならないことなのだ。この感覚はどこから来るのか。