ラベルの錯乱

 昨日(日付かわったばかりだけど)の読書会で山形浩生と山梨正明を間違える。わたしはこうした間違いをよくやらかす。
 固有名詞ほどよく間違う。有名人だろうがただの知り合いだろうが関係ない。頭の中で混ざってしまう。音が似ていたりすると危険である。同じ音節で始まったり、母音とアクセントが似ていたりと、そんなことで錯綜する。ひどい時には二つ以上の名前を混ぜて、新しい人を作ってしまう。それは誰だと言われたりする。よく恥をかく。
 でもこんな間違いは、わたしよりはマシとはしても誰でもしそうな範囲であるし、もし違う名前を言ったとしてもだいたい相手に察してもらえる。この程度のことであるならそそっかしい人であるだけで済む。
 むしろ問題であるのは、音のこと以外で間違えてしまった時である。わたしは形で間違える。文字の組み合わせが似ていたり、漢字の濃淡が近かったり、英語であれば綴った時のでこぼこがほとんど同じに見えたりと、そんなことで混乱するのだ。これは誰も分かってくれない。訂正しても、なんでわたしが間違えたのか誰にも想像できないらしい。なぜそんなことをやらかすのかと、不審そうな目で見るだけだ。
 他にも名前がアナグラム気味になってたり、似た意味や範疇の漢字を使っていたり、たまたま一緒に買った本の著者を入れ違いに覚えていたりと錯綜の原因には事欠かない。こんな要因が重なるともうわたしの判断力は錯乱の谷に突き落とされる。
 今回の二人にしてもそうだ。同じ漢字で始まる上に、苗字がともに県名でもあるではないか。その上漢字の濃淡もどことなく似てはいないか。こうなるともう、自分の中でわけがわからなくなってしまう。わたしの十代の三割くらいを北村薫高村薫は同じ人として過ごしたはずだ。なぜこんなにも作風が変わるのかといぶかしみつつ、違う人だとは気づかなかった。何しろ名前はほとんど同じではないか。ひらがなにすると一文字だけしか違わない。わたしに区別しろというのが無理がある。
 混乱要因は掴めたのだが、それにしてもなぜ間違いをやらかしてしまうのか、いちばん理解できないのは自分のあたまの具合である。もう少しなんとかなって欲しいのだが。なんとかしないととは思いつつ、恥をかき捨てこれまで来たのだ。残念だけれどもうこれ以上、なんともならないのだろうな。