氷の本

 最近あまり使うことのなかった冷凍庫を掃除しようと開いたら、ウォッカなどのビンの下から文庫が三冊発掘された。どのくらいここに眠っていたのだろう。冷凍食品は好きではないし、最近部屋で強い酒を飲むときは、たいていリキュールかマオタイだった。氷を作ることもない。冷凍庫自体一ヶ月に一度ほどしか開かない。ジンか何かを取り出して、またすぐポケットに戻す。そのくらいのことだった。下手をしたら夏前からここに隠れてたのではないだろうか。恐らくわたしがしたのだろう、丁寧にカバーのへりをそろえて固まってる。どこからしみ込んだのだろう、水気を含んだページが張り付きがさごそと不快に音を鳴らす。なぜこんなところに本を仕舞ったのだろう。だいぶ以前から感じていたが、もういい加減自分の頭脳のすることにわたしはついていけなくなっている。三冊の本は冷たい。そしてずっしりと重い。手の平を冷たい圧力が流れ指を燃やす。四五年前、あるいはそれよりも昔だろうか、繰り返し愛読した本だ。当時はまだわたしの周りにも人々がいた。たまに誰かの部屋に集まって酒を飲み、真剣なこともくだらないことも話すことができた。わたしは真剣なことをくだらない姿勢で、くだらないことを真剣な口調で語っていた。とるにたらない思考の中へわたしが沈んでいく時も、彼らは別の重しでいてくれた。それともわたしの落ちた穴が単に浅かったというだけなのか。いずれにせよ彼らはいつしか消えた。わたしも彼らの元を去った。わたしは彼らの元を去らなければならなかった。石油ストーブの周りに並べた木製ベンチの暖かい酒宴でどれだけ笑いどれだけ語らいどれだけ眠ったとしても、身体の内にきらきら潜む氷の衝動がわたしを裏切る。暖房の効いた輪の中でわたしの両手は氷を掴む。ふと見た氷河の遠景に足取りを決められてしまう冒険家のように、独りであることでしか見れない幻視を見るために、どうしようもなく全てを諦め誰もいない方向へと立ち去った。それでしか得られないものがあまりにわたしの心を捉えていて、結局ひとり沼地の底へ歩んでいく。みな、それぞれが自分の沼を持っているのだろうか。どれだけつまらない宝物でもそれを見なければ他にどうしようもない何かを秘めた森の奥の沼を。唯一人で全てに背を向け歩み入る、そんな冷たい沼底を。どうあってもわたしはそれを諦めることはできないだろう。どこかに小さな拠り所を見つけたとしても、いずれわたしは旅立つだろう。わたしは誰の処にも安住することはできないのだろう。目の前の安らぎにその衝動をひと時忘れていたとしても、それがどれだけ暖かだったとしても、いずれわたしは氷の本を見つけてしまう。冷たく重い圧力を手の平に掴み、冷気に燃える指でわたしは闇へ沈んでいく。どこまでもひとりで落ちていく。