ある感傷

 授業の準備をしかけて気がつく。今週は学祭、大学自体が休みである。昔からこんなうっかりが多い、怠け者のなんとやらを地で行っていた。普段はろくに顔を出しもしないのに、気まぐれに登校してみた時には学祭だったり創立記念日、休講だったり、間の悪いことばかり続いた。おかげで入学当初の三年間で出席したのは、試験を除けば余裕で両手に余るだろう。年平均で三日ほどしか登校してもないはずだ。かつてはこの大学もおおらかで、出席を取るような講義はほとんどありもしなかった。レポートか試験を受けたらそれで単位がもらえたのだ。実際わたしも一年で百単位ほど取った年がある。少し調べてレポートを出せばそれで単位になったので、書類上同じ時間の講義に二つ以上も出てたりする。この頃はそれが厳しくなって、だいぶ変わってしまったようだが、以前は教える側にせよそれで当たり前と思っていたようだ。そのため様々な伝説が生まれた。

  • ある講義のテスト、問題はただ一問、三択でプリントされた写真から講義をしていた教授の顔を当てるというもの。当然出席していなければ正答率は33%である。
  • これはわたしも出たのだが初回授業に60人ほど生徒がいた。その日最後の先生の挨拶。誰もいないとさみしいので、必ず毎日一人以上は出てください。直後有志の生徒によりくじ引きが行われ、二十日分計二十人出席者が決まった。
  • 国文学の和歌の授業にて。先生がたまにはと出席を取ると、そこにいたのは全員もぐりで近所のおばさんたちだった。短歌が趣味で無料カルチャーセンターとして利用されていたのだという。
  • 現在お世話になっている教授の学生時代の話として聞かされた。三人だけの授業で二人休んだ時のこと、先生が「帰って勉強しろ」と本気で怒ったという。その頃はわたしの時代よりさらにその風潮が強く、授業に出るような学生は二流、本当に優秀な学生は勝手に家で勉強するもの、と教師の方も考えていたのだという。
  • 休講が多いので有名な教授、ある年の講義でついに年間二回しか授業をしなかったという偉業を達成。惜しむらくはしばらく前に定年退官されてしまった。
  • 授業をした教授本人から聞いた話。初回生徒数が50人以上と嫌に多かったので授業内容のレベルを上げた。年末まで二人も生き残ったそうだ。


 一番上の写真三択はわたしの入学時から有名な伝説で真偽のほどは知らないが、他は自分の体験だったり直接関わった方に聞いたりと、全て実話である可能性が高い。
 思いつくままざっと挙げたがやはりこれは普通でない。近頃は締め付けが厳しくもなり、ほぼどんな授業であっても出席を取られるようになっているそうだが、わたしはその変化の前にそうした講義と縁が無くなり実際のところは分からない。確かにもう時代にはあわないのかも知れない。だがこんな校風もわたしにはありがたいものだった。サボっていてもなんとか卒業できると言うこと以上に、自分の興味のために時間を使うことができたのだ。


 弁護するわけでも懐かしんでるわけでもないが、これらのことは何かを学ぼうとする上で、どこか有益な面があったと感じられてしまうところがある。何か知りたいものがある個人にとって、学問の自由度というのは不可欠なものである気がするのだ。一般論にはできないだろう。それどころかわたし一人にしか適用できないことかもしれない。そもそもわたしなどが学問を語るなどおこがましい。だが、それでも言わせてもらえるならば、学問とはそんなすんなり割り切れうるものなのだろうか。


 個人的な経験の上でのことしか語ることはできないが、わたしにとっては、自分が学びたいことというのは既存の学科や研究のどこかにすんなり収まるものではなかった。だが、にんげんの興味というのはそうしたものではないのだろうか。大学に入り、既存の学科や研究室から自分の学びたいことを選んだ学生ではなく、もともと持っていた切実な興味に突き動かされ、どうしても知らなければならないことがあるのだと、大学の中にそれへの道を探そうとした者にとっては、与えられた学問分類のどれであっても座りよく収まるとは思われない。少なくとも、わたしはそうだった。自分がかつて抱いていた餓えたような欲求を、どの研究室もどの学科も、あるいは学部、大学という大きな枠組みであっても、すっぽりと囲ってくれたことはない。


 わたしが知りたかったことは何だったのだろう。それこそ命をかけても解き明かしたい、それを知らなければ自分の存在した価値もない、こんな情けないちっぽけな人生でも、それだけが分かれば、もしかすると、ほんのわずかにも救われるような気がする、他人の目にはくだらぬことであるかもしれないのだが、それほどの興味を抱いていたことというのは、結局自分のことだった。自分がどこにいるのか、どこで何と関わり、どうつながっているのか、どこへ消えるのか。そしてなにより、なぜ生まれてしまったのか。
 求める手段や道筋は色々有り得るだろうと思う。高校生の頃考えたように(もちろん、今ほどはっきりと自覚していたわけではないが)理論物理や数学を突き詰めて行ってもよかっただろう。より実生活に密着した、医学や経済、あるいは法学などを学ぶ内にもその道は開けていただろう。哲学や宗教、社会学や心理学など、そして現在中心に学んでいる文学、どれにせよ角度や切り口の違いはあれ、わたしが知ろうとしたものに道は続いていただろう。そしてまた、どの一つにせよ、それだけでは答えに至れないという気もしていた。結局、物理をはじめその他の理系虚学をかじりつつ数学を経て、今は文学をやっている。その他の分野も一通りはつまんでみた。もちろん、つまんだ程度でしかないし、つまんだ程度で理解できるものでもなかったが。通過してきたどの地点を考えてみても、自分の抱いたその興味を、そのまま抱擁してくれるところは無かったのは確かだ。恐らく、大学に限った話ではなくどこにもあるまいと思う。わたしの妄想でしかないだろうが、たぶん、学問とはそんなものなのだろう。どの先人にせよ、パスカルにせよデカルトにせよ*1、それぞれの時代に既にあったどこかの枠に彼らの興味は収まらなかったのだろう。現在残っているような色々な枠組みは、もしかしたら偉大な先人たちが自分の興味に合わせて作り上げた、彼ら自身の学問の残滓であるのかもしれない。今に残るほど巨人でなくとも、名を残さずに消えていった学生たちにも、そんな自分だけの学問を抱えたものはいただろう。むしろそんな無名の学生たちの方が大多数であるのだろう。どうあっても譲ることのできない切実な欲求を胸にしたまま、だが先人たちの巨大な学問体系を乗り越え、そこに自分の学問を打ち立てることができるほどには偉大でもなく、ただ一人で自分の興味を秘めて、既存の体系のなかでその坐りの悪さに苦悶しながら、それでも諦められない餓えを抱えて、孤独に消えていったのだろう。わたしはその無名の一人であれるだろうか。


 そんなおおらかな風土の中で、この大学の生徒は随分恵まれていたと言うべきだろう(今は違うらしいが)。自分だけの学問を抱えてしまった、しかし力の無い学生にとっては非常にありがたい制度であった。大学生である以上、文部省の規定に従い、所属する学部・学科・学年などによって定められる規定の単位を取らねばならない。だが、その既製の枠組みから外れてしまった興味に対し、それがどんな役に立つと言うのだ。やはりわたしはその校風が無くなりつつあることを残念に思う。かつては形だけのレポートで文部省の規定に合わせた単位を揃え、その裏で、制度上は単位としては認められない、自分の学問に即した勉強をすることができた。他学部の授業にもぐりこんだり、学部生は本来認められはしない院生用の演習に混ぜてもらったりということもあった。学外のことにそれを求めることもできた。部屋に篭って誰にも理解されない自分だけの思索にふけることもできた(もっとも、今の院生としてのわたしの立場はこれに近いものがあるが。それも良し悪しである)。それが無くなっていくのは惜しいこととも思われる。だが、抱えてしまったものに殉じることができるほど、わたしも誰も強くもないなら、仕方のないことであるかもしれない。

*1:先に理系を通ったため、いまだに彼らのイメージは科学者であるが