思考の肉体

 ひとは言葉で考えると言う。人間の頭の中にあらわれることは、すべて言語化されているという見方である。もちろんこの場合の言語とは、普段われわれが使っているような言語より(例えば、日常会話で使う日本語であったり、文章語であったり)もう少し広い範囲を含むが、この意見に従えば、人が考えること、思うこと、そして感じることというのはすべて(広い意味での)言語によって記述されている――より厳密に言えば、言語において、人は考え、思い、感じる――のであるし、逆に、その人の(頭の中の)言語に無いことは、考えることも感じることもできないということになる。つまりは、(広い意味での)言葉になっていないもの、すなわち言語的な構造に回収できていないものは思考することもできないという考え方である。
 わたしはこれに賛成しないが、ある範囲までは妥当とも言えるのではないか。こうした考え方は珍しいものではない。珍しいものではないと言うより、その類型まで含めればむしろありふれた見方と言えよう。特に二十世紀入ってからの思潮において極めて特徴的かつ基礎的な考え方であったのではないか。*1もちろん、言語において人は思考する、ということの捉え方や扱いはそれぞれで異なっているし、それどころか互いに対立していることも稀ではない。個々を専門的に知りもしないし誤解や間違いが多いだろうが、例えば現代に至り哲学と言えば(少なくとも、西洋系の哲学であれば)実質言語哲学であることもこのような観点から生じたものであろうし、また人間の精神的な営みを言語(あるいは言語的な構造)として見るのは精神分析や心理学においてはもはや古典的な観さえある。他方で、人間が言語において考える、感じる、思う、という見方から言語そのものを考えたときに、そこにわれわれが普段なにげなく喋っている言葉の起源を読み取ろうとするのも、まったく自然なことである。恐らくこのような発想が認知言語学の根本にはあるのであろう。
 前置きしたように、わたしはこの考え方にかなり根本的なところで疑いがある。それは論理的に間違っていると主張できるようなものではない。むしろ違和感を感じている、体感・経験に近いものだが、自分が感じたり、考えたり、思ったりしているときの実感と、どこか奥の方のところでずれている気がするのだ。一方で、その奥にひそんだずれを無視するなら、おおむね、広い範囲で当たっているのではないかとも思う。少なくとも意識して何かを考えているときは、わたしは確かに言葉で考えている。言語において、と断言できるほどではないにせよ。

*1:大仰に述べたが、よく考えてみると、わざわざ書くほどたいしたことでもなく、単に当たり前のことを言っている気もしてきた。言語学で言えばソシュールあたりから、分野の垣根を越えて互いに影響しあいつつ、こうした発想が広がっていく時代だったということなのだろう(その中には構造主義/ポスト構造主義をもちろん含む)。