引越し、本末転倒、都落ち

24日の引越しは業者の予定で午後5時くらいからと聞いていたのだが、結局前日中に部屋の中は全て片付けて、PCも本体とディスプレイだけの状態にしてしまって、段ボールの山と、廃棄物と、それだけになってしまっていた。
朝早くに目が覚めてしまい、食べるものもないので我慢していたが(お茶のペットボトルだけは残してあったものの)、あまりにも暇で昼食がてら外に出た。その日の京都は雨降りで、寒い一日だった。
京都での最後の食事は、また天下一品のラーメンだった。火曜日でお気に入りの店が閉まっていたのと、近場で京都らしい食べ物と考えた時、他にあまり思いつかなかったこともある。自分の好きな店は、この数年の間に次々に閉じてしまった。なかおかコーヒーも無くなった。よく、これも無くなってしまった丸善で本を買い、なかおかコーヒーで読んだものだ。あの頃が一番、充実していたのかもしれない。
ちなみに実はラーメンは好きじゃない。ラーメンと言うもの自体がそもそもあまり美味しいと思わない。化学調味料の塊じゃないかと思う。だが、チープなグルメだが、この天下一品のそれも「こってり」だけは、なぜかハマったのだ。関西だけのチェーンかと思ったら、実は全国展開もしており、実家の近くにも一店舗あるのも知っていた。だから食べようと思えば、いつでも食べられるものには違いない。だが、なんとなく京都で自分が学生だった頃の味と言うと、この天下一品に、京大病院前のビイャント、その裏通りにあるキャラバンなどを思い出すのである。
余談だが、無くなってしまったと思い長いこと悲しんでいた、木屋町四条にあった「ストーリー京都」というヌーベル・シノワーズの店は、シェフの王さんが大阪に移って、店も小さく分かりにくい場所になったが、続いていた。一度、大阪まで行って食べてきた。味は落ちていなかった。残念なことは、接客のチーフは変わっており、以前の「ストーリー京都」のような行き届いたサービスはなかった。
自分が、京都時代からのファンで、このお店を見つけて非常に喜んでいることを伝えると、わざわざ厨房から出てきて挨拶し、料金もサービスしてくれた。以前自分が学部を出た時に、卒業記念の料理にホタテの清蒸を作ってくれた思い出を話すと、覚えていてとても喜んでくれた。

旬彩・中国料理 ジャスミン

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大阪は梅田の、かなり分かりにくい場所にあるので、興味を持たれて、行こうという方は、事前に地図などを確認された方がいいだろう。

ともかく、京都最後の料理は天下一品のこってりラーメンで締めくくった。それから業者がくるまであまりにも暇だと思い、結局、帰りがけの小さな書店で文庫を買ってしまった。これがほんとの本末転倒である。何のために全て梱包してしまったのだか、分からない。
買ったのは、姫野カオルコみんな、どうして結婚してゆくのだろう (集英社文庫)』と村上春樹東京奇譚集 (新潮文庫)』。前者は最近、再版がかかったようで平積みされていた。名前の通り結婚をテーマにしたエッセイである。しかし、耐え難くつまらなかった。いつも姫野のエッセイを読むたびに思うのだが、なぜこの人はここまでエッセイが下手なのだろう。小説は割と面白いのに。「(女性にとって)結婚とは、セックスと相手の老後の世話をすることに他ならない」という著者の主張は、説得力がある。説得力がある主張なのになぜつまらないのか。それは、彼女の文体というか、書き味そのものにある欠点だと思う。姫野は、説教下手なのだ。
言ってみればこの本は、世の女性の考え方を啓発・啓蒙するものである。やはり、説教にならざるを得ないだろう。なのに姫野の文体は説教臭さに欠けるのである。同じ説教なら、塩野七生くらい説教臭い方が、読んでいる方も読みやすいし、納得もするだろう。それが姫野は、いちいち読者に同意を求めるようなところがある。「〜じゃないですか?」と問わずにいられない。それでは、素直に説教されてやろうと言う気も無くす。せっかく説得力のありそうな主張も台無しである。
ただ最終盤にほんの一箇所だけ、面白いところがあった。電子レンジのくだりである。電子レンジが出始めの頃巷間に流れたのであろう、「レンジの湯気を浴びると妊娠できなくなる」という噂を信じて、幼少の姫野が必死で湯気を自分の腹に当てるというくだりである。先の主張よりも、もう少し著者の、著者自身の女性性に対する嫌悪が伺えるようで、なかなか面白く読めた。この本の読みどころはここだけである。

姫野のエッセイを読み終えても業者が来ないので、続けて春樹を読んだ。実は、俺は春樹は終わった作家だと思っている。
詳しいことは省くが、彼のピークは『ねじまき鳥クロニクル』にあって、その後、作家としては急速に衰えたと思っている。実際、その後は駄作と言ってよい作品が頻発するようになった。読みどころがない、とまで言ってよい本もあった。もちろん『神の子どもたちはみな踊る』は傑作短編集であるし、それへの流れを考えれば『アンダーグラウンド』もまた意味も面白さも見出せる。が、逆に言えばそれ以外が惨澹たるものだった。これはどういうことか?
春樹は、書きたいことを書ききってしまったのではないか? 今の春樹は言ってみれば抜け殻で、二度三度と煮出した茶葉のような、書くべきものがうちにない(それはたぶん、一個の人間としては、とても幸せなことである)存在になってしまったのではないか。私見だが、これが自分の考えである。このことはピーク期からそれ以降のエッセイなどを読んでいてとみに感じられるし(ある意味、楽になっちゃったんだなあ、と)、まただからこそ、オウム事件など、外部に書くことを求めたのではないかと思う。逆に言えばそんな状況で『神の子どもたちはみな踊る』という傑作を書けたことを褒めるべきであろう。近年、執筆のバランスがやや翻訳よりに傾いているのも同じ理由だろう。
つまり、春樹は終わった作家である。そう思い、『アフターダーク』以降、最新作を追い求めるのも止めていた。『東京奇譚集』などは文庫落ちしたら買えばいいだろう。まして連載など読みもしなかった。
東京奇譚集』が文庫落ちしたのは、2007年の12月である。そして文庫落ちしたことも一年以上、気がつかず、今まで放ってあったわけだ。それほど、自分の中では春樹は過去の作家になっていた。
それが、読み出したら面白いのである。何度も作風を変遷させてきた作家でありながら、そうした春樹「たち」に十分通ずるような春樹らしさもあり、また物語を読ませる。きっぱり春樹を切り捨てていた自分には、あまりにも驚きだった。
思うに、『東京奇譚集』の一作目は、確かに面白くなる要素があった。この短編は、まるで古典の三人称小説のように、作者本人が小説に登場するのである。今の小説の常識から言えばズルをしている(あるいはメタ小説として、メタレプシスしている)。ともかく、作者が作者本人の体験談を話す。これは当然エッセイに近いものになるだろう。そして春樹が当代随一のエッセイの名手なのは、言うまでもない。
個人的な考え方だが、自分は春樹をエッセイの人と考えている。何よりもまずエッセイが上手い。春樹の最高傑作を一つ挙げろと言われれば、小説『ねじまき鳥クロニクル』ではなく、エッセイ『遠い太鼓』を挙げる。作家が、自分の身の内にある「書かざるを得ないもの」と格闘し、それを作品へと書き上げていく姿が、克明に記録されている。
そのエッセイの名手が、エッセイに似たものを書いたのだから面白くなるのはある程度、当然のことだろう。それをまず第一に思った。だが、それだけではない「形」が読後感として残ったのも正直に告白せねばなるまい。
次の短編「ハナレイ・ベイ」も、前作ほどではなかったが面白かった。締まっている、と言うほどではないが冗長を感じず、また人物もよい。さて、物語をどう切り取ってくれるのか?

というところで引越し業者がやってきた。五時半過ぎになっていた。帰ってきたのが三時頃なので、二時間ばかり、久しぶりの読書を楽しんだことになる。

東京奇譚集 (新潮文庫)

東京奇譚集 (新潮文庫)

なお、「ハナレイ・ベイ」の続き(そして短編集自体の続き)は未だ読んでいない。引越しのごたごたやその他の面倒なことで忙しかったこともあるし、自分自身の春樹への評価が、大きくまた変わるかも知れないことへの、あるいは恐れめいたためらいがあるのかもしれない。それは、まだ分からない。

業者は5人でやってきた。混載便だからであろうが、それにしても単身者の引越しには破格の人数である。値段も破格であった(はっきり書いてしまうが、三万二千円である)。この値段で、本のたっぷり詰まった段ボール29個と、PC本体、ディスプレイ、それからPS2を名古屋まで運んでくれた。ただし廃棄物には同じくらいの別料金がかかっている。
業者は、冷蔵庫やデスク、TVやベッドなどの廃棄物も含めて、ものの40分もかからずに、俺が京都で生きた痕跡をきれいに一掃してくれた。本当に、40分かからなかった。人生の半分が終わった。
料金をその場で支払い、大屋さんに鍵を返すと、荒神口から京都駅前に向かうバスにのり、七時にはもう名古屋へ向かう新幹線の中にいた。時間帯からか客室は混雑していた。最後に残るかもしれない、わずかなものを入れようと用意しておいた大き目の鞄には、なぜかベッドの下から出てきた『カイジ』第10巻だけが入っていた。選ばれた本がそれだったのはどこかコミカルにも思えた。