うぶ毛とその中心にあるもの

 二日前(20日)の日記の続き。本来、20日の内にこちらまで書いてしまうつもりだったが、書ききる体力がどうしても維持できず前半だけとなった。後半をここに書く。
 小学生の頃一番好きな果物は枇杷だったが、今現在は桃の方が好きである。もっともどちらもそう遠くはない親戚筋の植物なので、あまり変わったとも言えない。桃から見れば、枇杷は梅や杏ほど近くはないが、それでも近縁の範囲にある果物と言うことになる。
 桃にしてももうその一番の旬を過ぎてしまっている。こちらも今年はまだ食べていない。枇杷ほどには旬の時期が狭くはないので、まだそれなりのものを味わうこともできようが、どうせ食べることもないまま夏が過ぎるだろう。
 枇杷にせよ桃にせよ食べ方はいろいろあるが、やはり果物を食べたという気分が一番に味わえるのは、生のまま、それもほとんど調理をせず、せいぜい皮を剥き小口に切る程度で食べるやり方だろう。つまり、桃を桃として食べるやり方である。最も単純な食べ方であるが、実はその中にさまざまな流儀がある。考えられているほど単純なことではないのだ。桃をどう食べるかでその人間の味覚の質と性格がおおまかに把握できると言っても過言ではない。
 中でも一番手をかけないのは、桃の実の表面を軽く拭いてやるか、あるいは弱めの流水で流してやり、皮も剥かずにそのままかぶりつくというやり方である。要するに丸かじりである。これはいただけない。味に疎い人間はいかにも通好みの食べ方だと思うかもしれないが、本当に桃の味を知っているならばこんな食べ方はしない。桃の実において最も味がよいのは、皮のごく裏の部分の果肉なのだが、桃の皮はあれでなかなか厚みがありしっかりしている。皮も剥かずに歯を立てたのではそこの一番おいしい部分が皮ごと潰されてだいなしになってしまう。こんな食べ方をする人間は食に対する造詣か、愛情か、味覚の鋭敏さか、人間性の細やかさか、その少なくとも一つ以上に重大な欠陥があるということになるだろう。人によばれてもてなしを受けたとき、さあかぶりつけと言わんばかりにそうした皮つきの桃が何もなしに出てきたなら、あなたは憤然と席を立つべきである。桃だけは傷つけないよう大事に持っていくのは忘れずに。そのような供応をする人間は、人をもてなすことにおいて最も大切な心配りができておらず、ただ形だけの対応をしているに過ぎない。
 ではナイフで皮を剥くのはどうか。これは論外である。皮ごとかじる人間には、その鈍感さに対して怒りも覚えようが、ここまで来ると怒りを通り越して哀れみすら感じる。先にも書いたが桃で最も味わうべきものは皮の裏の桃の果肉である。それを皮ごとこそげ落としてしまってどうするのか。たいていの果物の皮を剥くのに使われるようなアメリカ人好みの果物ナイフなどは最悪だ。嫌に分厚い割りに切れ味は悪い。柔らかい桃の実にそんなナイフを突き立てたら、そうでなくとも刃の通ったところは潰されてしまう。桃はいかにその実を潰さずに口に入れるかが肝要なのだ。このような食べ方をする人間は哀れむべき白痴であるか、ものを知らない幼児のようなものである。決して刃物を持たせてはならない。
 桃の皮は、丁寧に手で剥くのである。他のところはある程度適当でもそれなり食べられるが、この点だけはおろそかにしてはならない。桃の味を一番左右するところであるからである。皮を剥く前に、桃の実はほどよく冷やしてやる方がよい。皮も剥きやすくなる。かといって冷蔵庫などに入れてはならない。あらかじめ冷蔵庫などでたっぷりとした冷水を作り、大きめのボールにそれを取って、10分から半時間ほど実の大きさにあわせて冷水のボールにつけておくのだ。氷水でもよいが、桃の実が痛むほど冷たすぎてはならない。桃に限らず、バラ科の果物類はこのように冷やすのが一番よい。冷気に大変弱いので冷蔵庫に直接入れるのは絶対に避けるべきである。
 剥く前に他に用意すべきものとしては、まず包丁である。先が細く、刀身がごく薄く、何より良く切れるものでなくてはならない。刃を桃の実に触れるか触れないかというくらいにそっと当てて、軽く1、2センチも引いてやると、さっと皮だけに切れ目が走る。そのくらいの切れ味のものが用意できれば最高だ。ちなみにごく一般的な家庭にある材料で包丁を研ぐ手段があるのだが、今回は面倒なので割愛する。どのような手段であれ、とにかく切れる包丁を用意してくれればそれでいい。なお、もし研ぎたてのものであれば(そうでなくとも余裕があれば)、包丁自体を水にさらして金気を取っておかねばならない。
 用意が整ったら、冷えた桃の実を傷つけないように注意して手に取り、まず包丁の切っ先を使ってへた(木に繋がっていた所)と皮とをはがす。細心の注意をもって丁寧に刃を入れねばならない。実を潰してしまうようでは失格である。切れ目が入った部分が小さければ小さいほどよい。へたの部分を囲むように直径1センチに満たないくらいの円が入ればそれでよい。
 この後は、またどのように桃を供するかによって手順が違う。だがいちばん簡単な丸のままの場合を例に取ろう。
 へたと皮とを離し終えたら包丁の役目は終わりである。包丁で入れた切れ目のあるへたの部分は奥に深くくぼんでおり、慣れるまでなかなか大変だが、その切れ目の部分から皮を剥いてやる。へたを北極とすると、南極に向かってやさしく服を脱がすように、皮をはがしていく。途中で皮が裂けて部分的に残ったりもするが、そうしたものも同じように丁寧にはがす。なれないうちは、あらかじめ南北方向に包丁でいく筋かの切れ目を作っておいてもよい。そのうちに切れ目無しでもできるようになる。このように丁寧に手で皮を脱がしてやれば、実がつぶれることもなく、また皮の裏の実が損なわれることもなく、桃の味を最大限に味わうことができる。
 ところでこのような丁寧なはがし方をしても、桃の実が十分に冷えていなかったり、あるいは逆に冷やしすぎて痛めていたり、また焦って力を入れすぎたり、傷があったりといった原因で、はがした皮の裏にわずかに実が残ってしまうことがある。それを未練がましく舐めたりするのは実に無作法なことである。無作法なことであるが、気持ちはわかる。もしそのような行為に及ぶつもりであれば、そっと目立たないようこちらに背を向けてやっていただきたい。その間わたしは彼方の方に目をやり、遠くの雲のことにでも思いをはせていることとする。
 なおはがした桃の皮は、その桃の素性が確かであれば、軽く陰干しにした後、ピーチティーやジャムにすることもできる。粗悪な桃でやるのはおすすめしない。何より農薬の危険性があるからだ。ジャムにする場合はしっかりと筋切りをしてやること。さもないとゴワゴワと口当たりの悪いものにしかならない。
 皮の問題は以上であるが、桃の抱えるもう一つの難問として核がある。以上のように丸のまま供するのであれば食べる人の好きにすればよいのだが、小口に切ろうとするならば無視できないものとなる。桃の核は硬くまた大きさもあり、その上堅牢な繊維で桃の果肉と抱き合っている。これをはがすのは一仕事である。それゆえに、核をどのように除くかで小口に切るやり方にもさまざまな流儀が生まれる。
 一つ目は乱れ切りにするやり方である。核の部分を避けるようにして薄くそぐように包丁で果肉を落としていく。形は一定せず、大きさもばらつくことになる。ちょうど炒めもの用にジャガイモを7ミリほどに薄切りにしたような、平べったい実がたくさん取れることになる。取られる部分が適当なものになるので、味もまた切り身によってまちまちである。切断面がどうしても大きくなってしまうので、潰される部分も多く、桃の切り方としては下の下に属する。このやり方のよさは誰にでもできることである。それ以外にはあまりない。なお、桃を小口に切る場合は、たいてい皮を剥く前に切っておき、その後に皮を上のようなやり方ではがすことになる。さもないとどうしても包丁を入れるときに、手で支えた部分の実が潰されてしまうことになる。だが、このやり方だと乱雑に切られるためそれも難しい。無精な人間、及び料理の技術に乏しい人間であることを示すような食べ方となる。
 二つ目はくしに切るやり方である。ちょっとしたレストランのデザートなどに出てくる場合や、あるいはこれは料理したものだがケーキなどに使われている桃の実は、たいていこの形に切られている。要領はリンゴなどをくしに切るのとさして変わらない。ただし桃の核の部分を外して斜めに刃を入れる。核を含む円筒形の部分を残すように、順に斜めにくしを取っていくことになる。その意味で一つ目のやり方の発展形とも言える。くしをとった後、それぞれの背についた皮を丁寧にはがしてやる。形も大きさも均一で、そこそこ整った実が取れる。欠点は、まず斜めにくしを取るというコツを知らないとできないことであり、中心の核まわりの部分がだいぶ無駄になるということである。特に調理用の核抜き器(金属でできた円筒を核の部分に突き刺して、上下の果肉ごと核を抜く器具)を使った場合は最悪だ。その器具の性質上、多くの部分が無駄になる上、獰猛な器械が通った後の部分の実はこれ以上なく潰されてしまっている。このような食べ方をする人間は、見てくれや形ばかりを気にして実質の伴わない形骸的な輩か、あるいはレストランや調理学校、文化センターなどで教えられたやり方をすることしかできないマニュアル人間ということである。ただし手早く桃を処理できるので、業務で桃を扱う人にとっては無視できない方法でもある。
 最後は、桃の核を避けずに、くしに切るやり方である。これには二通りがある。一つ目はものすごく切れ味のよい包丁と、それに輪をかけてすばらしい包丁技術がある人のためのやり方。丸ごとの桃の実の、ちょうどお尻になっている線にそって正中に、核ごと、一気に桃の実を断ち割るのである。確かに桃の核はその線にそって割れるようにできてはいるが、桃の実を一切潰さずに、核を両断するのは相当の技術が要求される。それができる人がいるとは聞いたことはあるのだが、自分で完全に成功したことは未だわたしもない。
 もう一つはそれができない人のためのものである。同じようにお尻の線からまっすぐに核に向かって包丁を引く。このときに良く切れるものを使わなければ、皮に引きずられて実がいくらかつぶれてしまう。ためらいがあってもだめである。一息に、しかしゆっくりと、すっと包丁を引くのである。すると包丁の刃が核に当たる。核の周りを一周するように包丁を入れてやる。それからへたとかわとの間に切れ目を入れてやるのだが、丸ごと食べる場合の時に説明したよりも深く包丁を入れるのが肝要である。へたはそのまま核に繋がっているのだ。そのへたと、皮だけではなく果肉との間を包丁ではがしてやる必要がある。それからもう一度、お尻につくった断層に包丁を差し込み、その腹を使って、二つの実を分けてやる。桃の実が硬いと比較的楽に分けることができる。柔らかい桃の実だと、核のまわりの果肉がえぐれてしまうことが多い。包丁の腹をてこのように使うので、それに面した部分がつぶれてしまいがちである。この犠牲をいかに少なく行うかがこの流儀の一番大事なところである。へたと果肉との切り離しがしっかりとできているほど成功しやすく、最初の刃入れやへたの切り離しがいいかげんだとどうしても力任せになり、桃の実に負担をかけることになる。
 どちらのやり方にせよ、これで皮と核のついたままの、桃の半身が二つできたことになる。あとはもう楽なものである。まず核を外す。核は太い繊維で果肉を抱き込んでいるので、包丁の先を使い外科手術のような丁寧さで外してやる。すると核のない、その部分の凹んだ半身が二つになる。それからくしに引く。二つ目のやり方とちがって、その中心部分、かつて核のあったところが凹んだくしができることになる。最後に背に残った皮を丁寧にはがす。
 核を割る技術のない人の場合(多くはそうだろう)、後者のやり方を取るので、どうしても包丁の腹が触れる部分が潰れてしまうことがあるだろう。人のもてなしとして出す場合は、その部分を除いてしまうか自分用にするとよい。
 切り終えたらなるべくすばやく食卓に出す。この間に間断があってはならない。桃の実がぬるくなり、色と味が悪くなり、切断面が乾き果汁が流れる。皿は桃の実にあわせて軽く冷やしておく。水気は丁寧にふき取らねばならない。それ以外はうるさく言うつもりはないが、桃の実色にあわせたものを用意できれば最高である。食器は食べやすければ何でもよい。フォークだろうがスプーンだろうが楊枝だろうが、あるいは箸であろうがかまわない。注意した方がいいこととしては、安物のプラスチックは避けて欲しい。独特の味と臭いが桃を損なう。竹楊枝もやめたほうがいい。あわせる食べ物によってはよい香りとなるのだが、竹の臭いは桃にはあわない。金属臭の薄いフォークやスプーン(ステンレスなど、銀器があれば最高だろう)、あるいは匂いのあまりない、品のよい木箸か楊枝でいただきたい。