新幹線

 お盆前後でひどいことになっているかと思いきや、ガラガラということはないが楽に座れた。ぱっと見、集客率(電車の場合はなんと言ったか、これではコンサートホールだ)50%に満たない。京都乗車の東向きだからかもしれない。逆方向は混んでいるのだろう。最近はのぞみにも自由席があるのがありがたい。
 ものの半時間かそこら、新幹線以外の全行程含めても二時間以下のちょっとした移動。だが、どれだけ所要時間の短いものでも、あるいは距離の短いものでも、その距離の移動は自分自身の歴史の移動を常に伴う。藪の中を歩くのに似ている。かすかな虫の声が絶えることのない薄暗い藪。五年前、あるいは十年前にわたしの足跡が踏み潰したその中の小道をもう一度通わされているようなものだ。それは必ず過去へ向かっている。腕に絡まりそのまま引抜いた蔓の跡、立ち木を避けて踏み出した足に潰された動物の死骸、格子状に並んで立つたらの木。かつてその棘に持っていかれた服の一部が、今はその格子のてっぺんに風に流されはためいている。たらは成長が早い。もはや手を伸ばしてもとどかないほどの高さに、チェック柄の生地がどこかの国旗のようにかかっている。身体を寄せたら折れて鮮やかな香りを立てた野山椒の低木は枯れてしまっている。朽ちてしまい、もはやそこにあったことすら分からないが、それでもかすかに匂いだけは残っている。それも気のせいかもしれない。そしてより木々が濃密に身を寄せ合う暗いところへ小道は入っていく。たらの棘ほど鋭くもないが、粘り強く腰のある木々の小枝に身体を削られながら、蜘蛛の巣に頭を覆われ、蟻やその他の昆虫が口や鼻に入り、それらを吐き出し、それらにむせ、噛み潰しながら、かつてわたしはその藪を蹂躙したのだ。大木から突き出る、折れて枯れた太い枝は、肩を突き刺し肉をえぐった時のわたしの血を、今もべっとりとつけているだろう。かつてのわたしの叫びは藪の通奏低音となって、こだましつづけているのだ。目に入るもの全てがわたしを過去に引き戻そうとする。
 しかしそのような小旅行にも、過去に続くものだけではなく、もしかしたら未来につながるものがあるのかもしれない。わたしはいまだに見たこともないが、あるいはそうしたものがあるのかもしれない。どこにも動けなくなる前に、わたしはその小道を探し当てなければならない。