地獄の遠景

 最近出歩いていない。京都に帰ってきてから外に出たのは一日だけだ。このことに気がついて自分がまた嫌になった。では部屋にこもって何をしていたか。何もしてはいない。まったく何もしてはいない。部屋を片付けたりしたならまだしも、積んである本の山を崩してその中腹から本を取り、どれもまんなかあたりまで読んだら読むのを止めて山頂に戻し、また新しい本を取る。本だけじゃない、何にしてもその調子だ。なにもかもこんなことの繰り返しだ。
 TVをつけたら頭がグラグラするような名古屋弁を聞かされる。民主党の国会議員らしい、好きなタイプのオヤジ顔だがこの言葉遣いはなんとかならないものか。名古屋弁、より正確には名古屋のネイティヴの人々の会話の特徴として、他の地方の人であれば思わずギョっとするほどのことを、あけすけに率直に言うというのがある。普通は言葉に出して言いにくいようなことを平気で言う。それも悪意があって言うのではなく、たいていの人なら遠慮したり躊躇してしまうようなことに触れることよりも、その先にあるものを提示することの方が相手にとっていいことだろうと考えて言っているのだ。本人たちは親切心からやっているのである。それは理解してやろう、わたしは嫌いだが。このあけすけな態度が政治家にとってはプラスになることもあるだろう、だがここまで野暮ったい姿勢と言葉は他にない。言葉は捨てたが態度にはわたしもそういうところがだいぶん残っているだろう。TVを消す。しかし頼むから電波にのせるのだけはやめて欲しい。気持ちが悪い。
 本を積むように、何かを積む。やらなければいけない仕事でも、出さなければいけないメールでも、ちょっとした用事でも、それこそ人との関係でもだ。すべてきれいに積んで山にする。山の中腹からひとつ取り出して、途中まで進めて山頂に戻す。この繰り返しの中で山はやがてそのシルエットを崩し、潰れていく。崩れていくこの山はわたしの姿だ。この潰れた本の塔が並び立つこの部屋はわたしの地獄だ。どこに出口があるのだろう、どこからならば逃れられるのか。明かりを消す、オーディオの液晶版がぼんやりと片隅に浮かぶ。死にかけた光虫のように、弱々しく、それでも形を変えながら、闇の中に無色に立つ壁にしがみついた灰いろのひかり、これは光ではないなにかだ、ぼやけた雲が海面に落ちていく幻に似た。なぜ闇の中を墜落することなくそこにあれるのか。ディスプレイの無関心な光を受けて本棚に並ぶハードカバーの背がてらてらと波打つ。その前に立つ、闇の上になお暗く潰されたトカゲの姿をしたにじんだ闇が浮かぶ。それが自分の影であることに気がつき、ひるんで二三歩後ずさる。足が冷たく滑る、自分の影に踏み込んだように、だが、それは机から落ちた黒ビニールのゴミ袋だ。どこに出口があるのだろう、この明示的な闇の中で、わたしは見つけられるのだろうか。
 耐えられなくなり、再び蛍光灯を灯す。目がなれるまでの数秒、天井が落ちてくる。
 タバコを吸う。昔はこれで多少は気分が安定したのだが、もはや胸が悪くなるだけで何の効果もない。もう一本吸う、煙が目に入り痛む。
 アクリル染料で描かれたポップ広告くらいに自分がこうしてここにいることに現実感がない、いろいろともがいてみるが、それを取り戻せない。部屋のブレーカーを落とすように、ふっと現実のスイッチが落ちるのだ。落ちるとなかなか取り戻せない。どれだけもがいてもなかなか元にもどらない。たとえ回復しても、始末の悪い蛍光灯のようにバチバチと点いたり消えたりを周期的に繰り返す。
 原因はわかっている。無理がたたったのだ。このところもう二ヶ月近く、ずっと調子が悪い。背中に焼き鏝を押し付けられ、一生消えないしるしを刻み込まれたように、調子の悪さから脱しきれないままに定着してしまっている。それでもなんとか徐々に回復しようとしていたところに、この世で一番会いたくもない人間たちに呼び出されて、すべてがなし崩しに悪化させられたのだ。筋違いだとは分かっているが彼らを恨まずにはおられない。このまま手を打たずにおけば、三、四ヵ月後にどうなっているか、あるいは一年後に自分がどうしているかがはっきりと分かる。何か根本的な、大胆な手を打つべきかもしれない。作為的な手段を取ることが嫌で、どれだけ悪くとも流れのままに放置してきたのだが。もっとも、もはや手遅れなのかもしれない。
 どこで、どんなふうに、どんなことをあがいたらいいのかすら、もう分からなくなってしまっている。あてもなく、手当たり次第に、無茶苦茶にあがき続けている。それで誰かに迷惑をかけてしまうことも多いに違いない。こうして無理やりにでも何かを書き続けているのもそのひとつなのだろう。まともな、あるいは、誰かに伝わりうるような、文になっていないこともよくわかっている。どうせ誰もここまでは読むまい。それでもいい、闇の中で独りで闇に解けて消えてしまってももう仕方がないと思うべきなのだ。その中で一人でくるしんで、そうだ、これは苦しみなのだ。だからわたしは一人でそれを甘受しなければならない。何かまだわたしに語りえるのだろうか。
 数日前に人と会って何かを話した。わたしは何かを語りえたのだろうか。間違いなく確かに、わたしの何を犠牲にしても、語らなければならないことがあったのだが。およそわたしが他人に対して意識的にできるぎりぎりのところまで、自分と相手の間にある壁を崩し何かを語ろうとした。わたし自身の自我が損傷を受けた以上にそのことは相手の方を傷つけただろう。わたしは自分自身と他人を切り刻みながらでも語らなければならない。だがまだそれを語りうる力がわたしに残されているのだろうか。その過程の中で消耗し今に至るのではないか。