混迷の中

 書かなければならないことを書ききらずそのままキーボードを離れた。何をしていたかはわからない、ほとんどこれといって何もしていないままに、いつの間にか数時間が過ぎていた。珍しいことだ、いつもならこんな時はどれだけ煩悶していても時間はまったく経ってくれないのだが。その間に付近の自販機に行きよく冷えた缶のお茶を買ってきた。真夜中の路地で威圧的に明滅する巨人のような機械の足元にうずくまってタバコを吸った。もう深夜というよりは早朝に近い、暴走族も既に帰宅したのだろうか湿り気を含んだ大気は静かだった。背中の巨人は、じいっと、低くうなってからイの母音を静かに引き伸ばし、ゆるく鼻に抜いて音を切る。すぐまた、じいっと、わたしの肩甲骨をわずかにゆする。ざらざらとしたはがねの触感が背骨を通じてわたしの錆びついた肺の底にまで響いてくる。響きを吸い込んだ銀の粒を吐き出すと湿った空気の中で恨めしそうにちらちらとまたたく。手を伸ばすと重たい大気の中へふっと逃げる。指の間から、溶け出すように、ふるふるといなくなる。アスファルトもかすかに震えている。
 わたしがどうしても語らなければいけないもの、わたしが今つかみ取っておかなければならないものとはなんなのだろう。それは確かにこの中にあるのだ。どれだけ苦しくとも自分自身にとって痛いことでも到底許されはしないほどまで他人を傷つけることであっても、そのすべての罪を引き受けてもわたしは語らなければならない。それで救われるとは思わない、だが、わたしの中にある重たく暗いなにかを、自分の内に抱き込んでしまったつめたい闇を、なんとしてもどのような犠牲を払っても開かなければならない。
 これは迷いなのだろうか、それとも自分自身を壊すことへの恐怖なのだろうか。もはやほとんど何もわたしには失うものは残っていないというのに、それでもまだ自分の自我が崩れていくことが怖いのか。愚かなことだ、それを始めたときにはこれほどまでに自身が失われることを自覚もしていなかったと言うのか。壊れていくことを実体もなくただ言葉の上だけの甘い想像でとらえ、それで覚悟した気になっていただけなのか。それで今わたし自身の崩壊が現実に始まり、やっとその痛みに恐怖したということか。そんな甘さや迷いがまだあるのか。たとえその結果どうしようもなくおのれが失われてしまうとしても、もはや他に手段はないことは十分分かっているのだろうに。せめて自分自身にも他人にも一切の容赦なく切り捨てよう、わたしには他にないのだから。ふと、時々のぞかせてもらっているある人の日記につけられていたコメントのことを思い出した。評価されるために書かなくてもいいんだよ、とその人は言っていた。もちろんわたしに対しての言葉ではない、誰に対してのものかは分からない。だがそれにほんの少し慰められるところはあった。その一言を残した方の日記もほぼ毎日見させてもらっている。語らなければならないものの核にあるものが何なのか、いまだわたしにはわからない。その周りにあるものを必至で切り取って、ほとんど身体だけでいばらの藪を切り開くようにがむしゃらに、それがどれだけ蔑まれるものでも不恰好なことでも、何とか書き取ろうとしているだけだ。言葉がほつれ何も書くことができないならば、せめて明日は今書かなければならないことをまとめてしまおう。箇条書きだっていい、とにかく少しでもまとめてしまおう。どれだけ軽蔑されることであっても、どれだけまとまらない、格好の悪いことであっても、わたし自身が壊れながらでも。ならばわたしはその姿勢だけでも堅持しなければならないだろう。それこそ、確かな意志でわたしを殺そうとしてくる子どもがいたならば、わたしの方も全力で一切の手抜きもなしにその子を殺してやるのが礼儀であるのと同じことだろう。例えばナイフやピストルや何かわたしを殺しうる力と、ふざけてではなく本当に殺意があるならば、たとえまだ10歳にもならない幼児であれ、あるいはその性別やその他のことがどうあっても、またわたし自身がどれだけ死にたいとしても、わたしもその子を殺してやろう。ほとんど理解もされないだろうが、わたしにとっては、それがその子に対する礼儀である。歳がいくつであったとしても、この世にあることの苦しみを独りで引き受けて生きる、わたし自身と同じような、いちにんまえのにんげんとして扱ってやるということなのだ。この礼儀と同じように、人々に蔑まれようともまた人々をどこまでも傷つけようとも、迷いなくわたしはわたしが語らなければならないことを語らねばならない。