クラムチャウダーを食べたくなった季節外れ

 集中講義初日。
 予想したものとはだいぶ違う進み方をする。ひょっとすると、この世界最高の油脂小説をひたすら読むのかとも覚悟していたのだが。それなりハードではあるが、初日に限って言えばむしろテクスト外のことがほとんどである。しかしちょっと電波な講義の進め方をする。わたしにはそれなり興味深いが、テクストに入っていくような話ばかりを期待していた他院生の評判はいまいちである。確かに油経済の話はもういらない。
 訳書を立ち読みした時にひょっとしてとは思っていたのだが、ご本人の講義を聞いて確信した。千石先生は書き手側の人間である。
 この書き手側の人間というのは一般に通用する用語ではない。それを論ずるために必要なことを全て書いていると膨大な量になってしまうので、最低限にまで縮めて述べるとこのようなことになる。全ての人に通用する話ではない、むしろ一部の特殊な範囲に限られることだが、何か内に抱えたものがあり、それを何とかするために、何かを読まざるを得ない(書かざるを得ない)人たちというのがいる。読みたくて読んでいる(書きたくて書いている)というよりもむしろ、何かにせかされるようにして、そうしなければどうしようもなくて、読んでいる(書いている)のだ。余談だが、このこと自体も含めて読むことと書くこととは、使う技術は違うとしても、ほとんど同じことなのではないかとわたしは考えている。
 この時、自分のやむにやまれぬものを読むほうに向けるか、書くほうに向けるかというのが、読み手側の人間か書き手側の人間かという違いになる。もちろん、きっぱりとどちらかに分けられる訳ではない、どんな場合でもその両方の要素を多かれ少なかれ持っている。そのどちらの要素が強く出ているかという問題である。
 研究者にせよ学生にせよ大学で文学をやっている人たちは、当たり前かもしれないが、大多数が読み手側の人間である。それも学者(学生)として優れている人は、非常に優秀な読み手であることが多い。もちろん、書き手側の側面を持っていないということはないのだが、研究の場で見せてくれるのは大方読み手としての姿である。わたし自身はおそらく書き手指向が強いだろうと自認しており、またテクストに対する意見を言う時もこの立場からのものが多い。少なくとも読み手として優れているという自信はまったく持てないのだ。従って周囲を読み手型の人々に囲まれてたいてい孤立してしまう。周りはテクストをどう読むかに関心があるが、わたしはなぜこのように書いたかに関心がある。いつも孤立無援なのだ。
 ところが彼のように第一線で活躍する一流の学者に、こうした人がいたということはわたしにとっては結構な慰めにもなった。もっともこれは専門とする作家のせいであるかもしれない。メルヴィルはさまざまな小説家の中でも、飛びぬけて、異常と言ってよいほどに、このどうしても書かなければならない、語らなければどうしようもあれない、という傾向が強い。このこと自体、今日の講義でも話していた。
 今日の講義はともかくも終わった。あと三日、なんとか通い続けなければならない。