叫ぶのけ者

 真摯に悲惨であればあるほど滑稽になってしまうのはもう受け入れることにしようと思う。先月高島屋で買ったジーンズもこのところ気に入って穿いている。tabloid newsというメーカーのもので、ファッションに疎いわたしには聞いたことのないブランドだった。この数年ジーンズは一着も買ってなかった。二十代も前半の頃は本数も多くあったのだが、いつ頃からか新しいのに手を出さなくなりむしろ型のしっかりしたズボンの類ばかりになった。嫌いなわけでもないのだが、やはり避けていたのだろうか、久しぶりに穿くジーンズはそのインディゴほどに新鮮だ。耳がついているのがよいのですよ、と分からないことをいう年配の店員に促され、こわばった触りのそれを受け取った。帆布の生地はでこぼことして木目が詰んでいるのが分かる。昔持っていたものに比べ随分ぶ厚くできてるようだ。このところの部屋の寒さにはちょうどいい。この前一度洗濯したが色もまったく落ちてもいない。わたしの住処のガラガラ蛇が遠慮するわけでもないのだが。
 赤地のチェックを襟から覗かせ、赤みの指した茶のセーターで外に出かけた。もうそれだけでは風が冷たい。階段が踵を押し返す時のカランと反響する音も心なしか氷の重たさがあるようだ。車道のアスファルトからせり出した舗道の隙間のタイルの段はカタカナにも見える模様をしていて、噛み潰す埃も白んで乾いた冷たさがある。今朝から頭が痛い。河原町を北上するとケーキ屋からどうしたものか揚げ物の匂いがして205の排気と混交している。ぶつかった右手に頭を下げると相手は植え込みから外れた看板で空は黄色く降ってくる。午後三時過ぎの時刻には不釣合いな朝の黄色が三角形を膨らませてがんがんと鳴る脊髄の音楽を響かせたまま、運ばれた赤さを舌に舐めると収容所前に放り出された群集の中に突き刺さる。また印象派でもやっているのか。毎日自分に問い掛けている疑問がある。日に十度、二十度と、答えは見つからないまま府立医大を通り過ぎこの寒いのにやたらと多い歩行者の首筋を数えながら、十年後二十年後とどんな姿になるかを想像している。横断歩道、真白い動物の体が落ちているのが見え、信号を数十秒ほど風に吹かれて凍えていたが手にとって見るとそれは帽子でぺしゃんこになっているにもかかわらずどこにも足跡すらのこっていない雪の白さを保っていて頭に乗せたくもなったのだが子供用か老人用かあまりにサイズが小さすぎる。飛ばされたのだろうか、確かに夜道も目立つだろうが白という色は嘘の寒さを思い出す。火葬にしようかと誘惑されたが持っていたショートホープで我慢する。ファーストフードは好きじゃない、いつもマクドに入ると後から来た客が持ち帰りと勘違いして順番を抜かしていくのだが、それはどれほどファーストフードが嫌いかをよく表しているような気もしてそこのところだけ許してしまう。だがなんで、まだ、ここにこうしているのか。ハンバーガーを絞め殺しポテトの半分を消し去ったところで乱暴な自動扉に吐きそうになる唾を飲み込んでみたが、植え込みに群がり貪る自転車の群れの金属の本能に手足を引きずられそうになり、あわてて押さえた不恰好な姿勢で今出川を渡る。商店街の書店としては二階があるだけでも立派な隠れ家で目の前に黒く広がった肩の重さが耐え難く下段の文庫を見るふりをしてしゃがみこんだがそもそもそれに注意してる人などいないだろう。今朝から頭が痛い。重なった新刊は紙の質量を立派に着込んで晴れやかにあざ笑っている。目につく写真は餅と蕎麦とみかんで着物を纏った文庫の一群が孕んだ腹を見せて喧嘩の前の格式ばった儀式を始めてしまうのだが、金色の帯は殴る前から強そうだ。なぜまだ、こうして生きているのか。姿勢を直立に戻すと斜めの頭蓋がからっぽの棚に飛び込んでしまいそうになり両手を使って体重を壁に支えてもらう。セールのために住人を表に移したらしいがこの頭もどこかでセールされてるのだろうか、ポスターは色が沢山あるのがいい。回転寿司くらいに。なぜまだ、今この穏やかな床に吐いたらケチャップ、レタス、ポテト、パン、コーラ、とポスターくらいはまかなえそうな絵の具だろうな。どうしようもなさ悲しさに泣きそうになるがちょうど目の高さに片山恭一が五人並んでむしろ怒りにすりかわる。