時計の錘

 頭痛はまだ続いている。体もだるい。しかし、むしろ問題なのは何かをやろうとしても、必ずそれに取り掛かる前に気分が止まってしまうという心の習慣にこそある。相変らず何もできない。何も進まない。
 何も考えずに身体を動かしていればできるようなことをしようと水周りの掃除をしたら手が荒れた。洗濯もした。呼吸もしたくない。このところ常に室内干しだ。ベランダはいつも隣の親子に占領されている。洗濯機を回す母親の傍でかん高い声の子供が言葉にならない言葉を鳴き続ける。今日はよく晴れた日だった。流しに溜まった水に屈み込むと、その中に入り沈んでいけるんじゃないだろうかという錯覚にいつも陥る。男の子は、おかあさん、とだけは発音できるようになったようだ。川底で聞く音楽のようにくぐもってはっきりしない発声だが、その声は明らかに母親を呼んでいる。水面にはほとんど泡は立ってもいない。物干し竿には原色の子供のパジャマと大きな布団、それにタオルや下着がぶらさっがている。昼の光の中ではどれも同じような色に見える。パタパタ平べったい足音を立てて右左わたしの部屋の扉の前を行き来する。一往復ごとに必ず一回、今度は二回、時には三回、母親を大きな声で呼ぶ。鳥の目を串刺して日に干したら黙るだろうか。言葉にならない言葉をわめき続けるだろうか。声ですらない音で鳴き続けるだろうか。手足も太い針金で貫いてベランダの手すりからぶら下げたなら。音も水底まで届くだろう。暗い部屋の光の当たらない陰にある水たまりをまだ知らないだろう。息を失いその底へ沈んでいったことも無いだろう。まだ六歳ほどだろうか。自分をこの世に産み落としたものへの怒りをまだ知りもしないだろう。宇宙をなくしてしまおうとさえ思ったことも無いだろう。喋れない口で明るい音色を喚きながら行き来する。洗濯籠から奪ったタオルは太陽にかざした小さな手と同じ色をしている。切り裂いたら同じ綿が飛び出すだろうか。水分を優しく含み、鮮やかに色彩をなくした綿布で細い頚部を穏やかに抱きしめ、意味を知らない幼い咽に言葉の代わりの切れ端を詰めてやりたいとさえ思う。親子はいつまでもベランダで遊んでいる。何もかもが沈んでいく午後にも、毎日同じ時間にそこへ出て、一日中乾いた音で囀りながらいつも遊んでいる。母親は働いていないのだろうか、自閉症児を預かるところがないのだろうか、柱時計に呪われた人形はいつも同じように歌い同じように遊ぶ。水たまりを木靴で踏んで、その中の夕焼けをはね散らし、声のない音をその後ろまで響かせ続ける。鉛の沈んだ水底にまでも。夕方また扉が開くと彼らも部屋へ帰っていく。歯車とガス台の音、それから次の朝が来るまで沈んでいる。