ある羨望

 過去のメモを見て思い出した。いろいろと書こうと思っていたことがあったのだ。中にはまだ自分の内で決着のついていないものや、あるいはどうにも言葉になってくれないもの(同じことかもしれない)もあり、すぐに書けるというわけではない。だが、語れることから語ってしまおう。


 だいぶ遅くなったけれど、住所登録について。これは別段書きあぐねていたわけでなく、いつ書いてもよかったのだが、単に忘れていただけである。そして忘れていた間に各所で議論がなされ、また運営側の方でも対応を変えたりなどと様々な進展があったようである。なので、わたしが書こうとしたことは今更なものとなってしまった。もはや現状とはずれた記事になってしまうだろうが、まあ、わたし一人の自己満足に過ぎないものなのだし、あまり気にもしないことにする。
 住所登録の要請が最初に出た時、自分の気持ちとしては、それが無責任なことは分かっているが、正直なところどうでもよかった。興味が無かったと言った方が正しいだろう。なのでむしろ、あれほど皆が騒ぎ立てることの方が驚きだった。住所登録を嫌がりはてなを出て行こうとする人、出て行きたくはないので何とか撤回させようとする人、運営側に働きかけようとする人、まあ仕方ないよねという態度の人、あるいはそうした人々にその必要性を説く人、他にもいろいろいただろう、反応はそんな風に様々だったが、わたしが彼らに一概に感じたのはある羨望だった。
 守るものがあるのだ。わたしが感じたのはそういうことだった。立場の違いや意見の違いはそれぞれにあれ、住所登録というちょっとした地震にそんな応答を返すことができるだけの、こだわれるもの、思い入れを持てるものが、たぶん彼らにはあるのだろう。わたしには何もなかった。ちょっとした日々の雑事を留めているだけの日記でもそれを家人に知られるのが厭だったり、ダイレクトメールなど現実的な影響を心配をしたり、あるいはウェブ上に自分の実人生と関わりの大きいことを記入することにそもそも抵抗があったり。それらの事々、それを些事とか取るに足らないこととかに思える人もいるかもしれないが、そうした他の人にとってはどうでもよい小さなことにも見えかねないものに、自分の大切な思いいれや気持ちを持てている彼らはわたしにはどうしようもなく羨ましかった。
 あるいはくだらない感傷なのかもしれない。そうした、ちっぽけかもしれないがそれでも大切に思えるものを持てなくなってしまったことへの情けない後悔なのかもしれない。わたしの無関心は、大切なもの、失いたくないものが何も無くなってしまったことに起因しているのだろう。守るものがない、と言い切れるほど徹底したものでもないし、実際、何かの折にはそれでもわが身をかばってしまうこともある。醜悪な自意識がまだ残っていたりもする。欲もある。だが結局のところで、わたしはそうしたものを大分失ってしまった。家族や身の回りの人がどうなったところでどうとも思わないだろう。自分の身ですら棄ててしまうことがある。もちろん、とっさの時には、むしろ身体が反射してという風情なのだが、身を守ってしまうこともある。だが、矛盾した説明にしかならないのだが、意識の方はむしろ身を棄てようと、より正確には、わたし自身に関心がなくどうなったところで構わないと、そんな態度である。どうやら最も突き詰めたところで、わたしはわたし自身に関心がないようである。他人事のようにしか見ることができない、自分を愛していないと言い換えてもよい。
 かつて働いていた事務所の定期検診が終わった後に、後ろで並んでいた人々に採血の様子が異常だったと言われたのを思い出す。ほとんどの人が顔を背け、そうでない人も注射器や自分の腕を、感情を出す、出さないはあるにせよ、ちらちら見ていたりするのに、わたしはただ表情の欠けた目で医師の顔を見下ろしていたのだと言う。自分にそんな覚えはなかった。ただ歳のわりにもたもたした手つきの医者だな、とだけ思っていた。針が長かったので、ちょっと腕の角度を変えれば突き抜けるだろうなと想像していた。あまり興味もなかった。
 自分自身にすら関心が持てないわたしが、周囲の物事や他の人々にそれほどの思いや動機を持てるはずもない。この日記にしても同じである。ある種の人々や、あるいはわたし自身の両親であるとかの特定の人々が読んだなら、相当傷ついたり、あるいはわたしに腹を立てたり、憎まれたりするようなことを平気で書いてきた。わたしはあれを母が見て自殺したとしてもまったく何とも思えないだろう。わたしはもう十分に人非人なのだろう。そんなこともどうでもよい。住所登録にしても同じようなものである。この日記や、メインサイト雨の中の猫などに書いてある情報を集めれば、わたしをまったく知らない人でもある程度の住所と素性は簡単に想像がつくだろうし、調べる気になればわたし個人を特定できるだろう。まして実生活でわたしを知っている人がこれを見たなら(そして、もちろん、見られているのだが)当然のようにそれと分かるだろう。だが知られたところでわたしは何とも思いもしない。悪用もできるのだろうが、仮にされたところでそれも他人事としか思わないのだろう。そもそも、わたし自身がわたしに関心が無いこと以上に、誰もわたしなどに興味は無いだろう。わたしはあなたたちに何の興味もない。誰もわたしに何の興味も持たなくていい。
 そうではない人々が、わたしにもまだ漠然と羨ましい。