会後のまとめ(2)

  • Gene Wolfe "The Island of Doctor Death and Other Stories"
  • ジーン・ウルフ「デス博士の島その他の物語」

について。


 久しぶりだが11/10「会後のまとめ(1)」の続き。一筋縄ではいかないテクストなので、数回に分けて長丁場になることは覚悟していた。それにしても進まない。前回の記事からだいぶ間が空いてしまっているので、もう一度こちらの末尾にも資料リストを転記しておくことにする。


1.まず前回紹介し忘れたことなど。

こちらのサイトの右上の写真、"Common Goose Barnacle"とタイトルされているもの。


確かに上のbarnacleの写真と比べると、雁の首の形、色がエボシガイによく似ているというのがわかる。

barnacle(エボシガイ)あれこれ
 前回の記事でタックたちが住んでいる島の様子がbarnacle(エボシガイ)に喩えられていることと、その形がペニスに見えることを書いた。これはランダムハウスの挿絵を見た限りの類似でしかなく、実際のところ確証があったわけではない。その後現物の写真をウェブで調べたところ、群生しているbarnacleはともかく、その中の一体を取り出せば確かに挿絵の通り、ペニスに酷似していることが分かった。上にその内数点へのリンクを張ってある。なお物語中でタックはこのbarnacleを石で砕いている。それで解剖図や解剖写真を探してみたのだが、ざっとウェブを見歩いただけでは発見することはできなかった。

 ところでこのことに関係して、前回も紹介させていただいたmixmaxさんが実に面白い指摘をされている。


ウルフ作品では、水は性的なシンボルと絡めて扱われるケースが多いので
(『ケルベロス』中、VRTの水浴シーンや奴隷のシャワーシーン、
アメリカの七夜』の海と精液のたとえなどが代表例)、この「海岸でbarnacleを砕く」
という行為は、物語全体に関わるシンボルかも知れません。

貝を砕いてペニスとしての自己をさらけ出すという読み方をすれば、これは割礼もしくは
性器の発育の隠喩にも読めますし、少し薄いですが母からの別離という受け止め方も
できるでしょう。
ただ、ここに「海」という要素を絡めていくと、これが少年の「精通」を暗示しているようにも
思えます。この線から各シーンを繋げていくと、タックマンの心身の状況や、その行動の意味合いが
より明確になってくると思うのですが。

性徴のモチーフ
 白状すると、barnacleがペニスに似ていると自分で述べておきながら、それをタックが石で砕いていることへの関連は完全にわたしの頭から抜け落ちていた。形状は確かに似ているがそれ以外のはっきりした証拠もなく、形のことだけではそれほど主張もできないだろうな、と半ば軽視していたところがある。このご指摘を頂いて、やっとそこのところが繋がった。確かに、割礼や精通、二次性徴などとからめて行けばこれは実に有力な読みになりうるだろう。ここでmixmaxさんには改めて敬意を表しておきたい。
 この「エボシガイ=島=ペニス」のつながりの中で、改めてタックがそれを「海で」砕いていることについて考えてみると、まずmixmaxさんがおっしゃられるように「割礼」のイメージが出てくるだろう。ここで「割礼」の二つの側面が問題になる。
 第一には、ご指摘の通り「精通」などの二次性徴、及びそれから続いていく性的なもの、及びセックスそのものとの関連である。「島」(前回に述べたように、子供としてのタックの世界を暗示する)でもあるbarnacle=ペニスを「海」(「本土」つまり、大人の世界に直面させられたタックが逃避する場所)で砕いているのは、「精通」や「二次性徴」から暗示される子供の世界との決別と考えうるだろう。さらには、大人になっていくことへのタックの自覚や意志をわずかなりとも読み込むことができるかもしれない。
 一方で、たいていの「割礼」や「精通」「二次性徴」が自分の意志とは関係なく、半ば無理やりになされるという側面を考えると、これはタックにとっての子供としての生活が奪われてしまうことを意味しているとも読めるだろう。わたしの偏見かも知れないが、たいていの割礼は性的な成熟が成されていない幼児の内に行われるという印象がある。もしそれが正しいならば、するとこれはまだ子供(幼児)であってよいはずのタックが、無理に大人の世界に投げ込まれることを強いられることを暗示しているとも読める。
 さて、これまで「エボシガイ=ペニス」を砕くという行為を、未発達な子どものペニスを大人のものにすること(割礼など)、と考えてきたが、全く逆にこれは大人の性器であるとは考えられないだろうか。つまりタックは大人の性的な世界を暗示する成熟したペニスを砕いているのである。「エボシガイ=島(子供としてのタックの世界)」とは外れてしまう嫌いがあるが、この要素もわたしには十分にありうることと思われる。つまりタックは大人の性的世界を拒絶しているのだとする読み方である。

 大まかに三つの方向で考えてみたのだが、この小説の全ての細部がそうであるように、どの読みもそれなりに妥当な、ありうる解釈であるように思われるし、また同時に、どれ一つ取ってみてもその側面だけを考えただけでは不十分であるようにも感じられる。

2.第一日目、夜
 さてbarnacleに関係することは一旦ここで切り上げて、この前の記事の続きに入ることにする。前回はタックが第一夜、自分の部屋に入るまでで終わっている。今回はその続きから。物語中では第二日目となると言いたいところだが、その前に第一夜、寝る直前の読書のことを飛ばすわけにはいくまい。

I had this story from a man who was breaking his word in telling it. How much it has suffered in his hands--I should say in his mouth, rather--I cannot say. In essentials it is true, and I give it to you as it was given to me. This is the story he told. (13)


 この物語は、ある男が、誰にも決して口外しないという誓いをやぶって、わたしに話してくれたものである。男の手の中で――いや、口のなかで、というべきだろうか――物語がどれほど歪められたかは、わたしには知るよしもない。だが大筋においては、それは真実であり、わたしは耳にしたままのかたちで諸君に伝えることにしよう。これは、その男から聞いた物語である。(伊藤 87)

 物語の第一夜、少年タックは、母とその愛人ジェイスンのセックスから逃げるように、ジェイスンが(盗んで)くれた本を読み始める。この物語内物語の描写が初めてあらわれる場面である。

枠構造
 前回の記事の「タイトル」の項で述べたように、物語内物語『デス博士の島』は枠物語を持つ。ここに引用されているのはそのほんの四行しかない枠物語の部分である。物語内物語は、このように一人称の語り手「わたし」が聞いた話を読者に語り直す形式で導入されている。この枠物語部分を除外すると、他の部分は三人称で語られる。
物語内物語への導入
 二人称小説であるこの短編自体の書き出しが一般のyouを用いた巧みなものであったように、物語内物語への導入も読者をスムーズに導くための人称上の仕掛けがなされている。物語内物語『デス博士の島』は、わたしが思うに、作者ウルフにとっては三人称で書かなければならない必然があった。しかし、それまで地の部分(タックの物語)を二人称という形式で書いてきた以上、いきなり三人称小説を挿入すると読者はとまどうだろうとウルフは考えたのではないか。この一人称の枠物語が存在する理由の一つはこれであろう。
 枠構造が読者を物語内物語へ導くための仕掛けであることを裏付けるように、この枠物語中ではyouという語が使われている:"and I give it to you as it was given to me"(わたしが語られたそのままに、きみたちに語ることにしよう)。
 youとは、もちろん、これまで二人称小説であるタックの物語を語る上で使われてきた人称であった。そして「若島ノート」の指摘の通り、これはタックを指すと同時にこの小説自体を読んでいるわれわれ読者をも指していた。この枠物語のyouも同じである。小説中ではこの本『デス博士の島』を読んでいる読者タックを指しているし、同時にさらにその外からこれを読んでいる読者、われわれをも指し示しているのだ。このyouの使い方は、前回の記事で指摘した、この小説自体の書き出しにあるyouの仕掛けとも通じるものを感じさせる。
物語について
 この枠物語は一つには読者をスムーズに物語内物語に導くという役割があった。そしてその仕掛けとして、youという語が二重の読者を指して使われていることは述べた。さて、ここでこの枠物語のもう一つの重要な役割が見えてくる。つまりウルフはここで、この小説自体がどんなものであるか、ヒントを出しているのではないか。
 一般論として、ある物語中に別の物語が登場する場合、つまり物語内物語が存在するような小説では、しばしば作者は自分の書いているその作品自体がどのようなものであるかを、その内側の物語のことに託して語ってみせることがある。このような類例は数多い。当然ウルフもそれを意識しているだろう。いや、わたしには意識し過ぎているというほどにも思われる。当然、それを素直に受け取るわけにはいかないし、そもそも一見したところで一筋縄ではいかなさそうなところがある。この小説中で、物語内物語『デス博士の島』について何か語られている箇所はいくつもある(例えば、前回に挙げたジェイスンが"camp"「三流のゲテモノ本」と述べるなど)。だがそうした外側の物語の中でのものではなく、かといって完全に物語内物語の中からの自己言及でもなく、いわば中間地点であるこの枠物語において語られているのは実に興味深い(かつまた、厄介であるのだが)。
 この枠物語が、物語自体へのヒントとなっているであろうことを裏付けるように、この短い段落の中にstory(物語)という語が二度、それを指示する代名詞itが五度も使われている。ここでは「物語」それ自体について語られていると言ってもよいだろう。では、この枠構造上でこの物語はどのようなものされているのか、ざっと順を追って見てみよう。
秘密の物語
最初に、「口外してはならない」と一度はされた物語である。「秘密」という語が持つ様々なイメージと関係しているようにわたしには思われる。まずこの小説それ自体が謎に満ちた、秘密の物語ということであるかもしれない。またタックの目からは隠された世界を背後に持つ物語であることを暗示しているのかもしれない。
 また同時にこれは、「口外しない」という約束を破って語られた物語でもある。これはこの小説全体に通じる、どこか背徳的な、禁を破るようなイメージと繋がっている。わたしはまだここのところを適切な言葉にできていない。だが少なくともわたしの中ではこの「秘密」を暴くこと、「約束を破る」ことが、mixmaxさんがご指摘された割礼や精通、性徴、また本自体がジェイスンによって盗まれたものであることなどに関連している気がしてならない。これは、子供が親などに与えられた禁止を破り、子どもの目からは隠された秘密を暴き、大人の世界に入っていくという物語を暗示しているのではないか。
ねじ曲げられた物語
 さて語り手は「大筋においては、それは真実」と述べているが、このように語ることこそがこの物語が真実であるかどうかを疑わせている。むしろ「物語がどれほど歪められたか」の方に読者は引っかかるだろう。
 これは「若島ノート」において指摘があるように、この小説全体が、どのような読み方をしてもそれに反する別の読みを否定できないような、何一つ真実とは決定も否定もできないような物語になっていると暗示されているのではないか。さらに突き詰めると、この「物語がどれほど歪められたか」というくだりは、この小説自体がでっち上げの作り物、即ち物語、であることを自ら暴露しているとも言える。
伝聞の物語
 もう一つポイントとなるのは、これが伝聞であるということである。語り手は自分の体験を述べているのではない。伝え聞いた、誰かに受け渡された物語として、この物語を語り、さらに次の聞き手に受け渡しているのである。この伝聞の構造はもしかすると後々重要になってくるのではないかと思わされるふしがある。
 さて、この語り手Iに「口外しないという誓いを破って」物語を語ったある男とは誰だろうか。直後にCaptain Phillip Ransom(フィリップ・ランサム船長)が名前つきで登場すること、そして物語内物語の主人公が彼であり、またその内容は彼の冒険記とほぼ言えるだろうことから、わたしはさして疑問にも思わず、ずっとランサムだとして読んできた(あるいは、ランサムとこの語り手の間に数人が介在するにせよ)。だが、ここまで述べてきたことを考え直すに、どうもこの「ある男」、この語り手に「秘密の」もしかすると「歪められた」ものかもしれない「物語」を語った男には、どうもウルフその人の影が差しているように思えてならない。もちろん、こんなことは、らちもない、何も得るもののないくだらない想像に過ぎないのだが。
その他この部分について
 ほか、この最初の物語内物語で指摘しておくべきこととしては、漂流中のランサムの描写に、言葉に関するものがあること、ランサム自身はどうもこれまで見てきたようなウルフらしさ(少なくとも、この小説らしさ、あるいはタックらしさ)とは対極にあるような人物として(たとえば、if「もしも」を考えることを自分に許さない、など)造形されていること、漂流なのだから当たり前と言えば当たり前だが、海に関する描写が頻出すること、水平線を見ていること、などが挙げられるだろう。
 余談だが、わたしが最初にこの小説の入った短編集を借りて読んだ時には、この物語内物語の部分はフォントが地の部分とは変えてあった。現在わたしの持っている本では同じフォントが使われ、ただ物語内物語の部分はやや字下げされている。ウルフの意図がどちらにあるかは分からないが、最初にそれで読んだためか、フォントを変えてくれるほうが読みやすいように感じている。
日付変更、及びタックの精神が語りへ介在していること
 この最初の物語内物語の部分が終わると、タックの世界は次の日の朝になっている。素直に読む限りのことでは、タックは本を読みながら寝てしまったのだろうと思われる。読書会でもその意見が大勢を占めた。もちろん、これに反対するわけではないし、読みとしてまず第一に妥当であろうことはわたしも同意する。だがそれに対する別の可能性として、わたしには魅力的に思える二つの読みを紹介したい。

 テクスト上に実際に記されていることを順に挙げると、昨晩タックが自分の部屋に駆け込んだこと、物語内物語、翌日の朝、となる。それ以外のことは一切記述されていない。もちろん小説につきもののいたって普通の省略である。だが、その省略、語られていないということ、そのものに何かを読み込んでみたくなるのもまた正直なところである。
 この二人称の語りが、あるいは小説全体の語りが、ある程度タックの精神を反映しているとするなら、それは語りたくないことがあったからではないのかと邪推してみたくもなる。前回述べたように、そこで省略された、つまりタックの意識から締め出されているだろう何かとは、セックス、具体的にはタックの母とジェイスンのセックスである。この省略にはタックがどれほど必死に自分の精神から排除しようとしているかがうかがわれる。しかしmixmaxさんもおっしゃられているように、タックがいくら排除しようとしてもセックスの音(恐らく、母親の上げる声)は形を変えて物語内物語の音として入り込んでいるのではないか。
 どうもタックが排除したもの(例えば、セックスの時に母親が上げる声)が、物語内物語『デス博士の島』の中に入り込んでいるのではないか。先に進むと、この『デス博士の島』の登場人物であるはずのランサムやデス博士が、タックの世界に浸出してくる。この虚構レベルの侵犯を「若島ノート」においてはメタレプシスとして説明しているが(若島 80)、わたしにはこの逆方向のメタレプシスも起こっているような気がしてならない。
 この箇所について一つ例を挙げれば、ゴムボートの上に乗り「規則正しい、力強いリズム」(伊藤 89)("a steady and powerful beat" 14)で櫂を漕ぐランサムは、この物語内物語に入る直前のジェイスンのセリフ「ふわふわしてすてきなママ」「ママの上にのると、大きな枕に寝てるみたいだぜ」(伊藤 87)を思い出させる。恐らくこの部分をタックが読んでいる時には、ジェイスンはママの上に乗っているのではないか。タックの意識からは排除されたその現実が形を変えて、物語内物語に現れてきているのではないだろうか。この部分は、単にタックの世界と『デス博士の島』の世界との対応という以上に、タックの精神が語り自体へ影響を及ぼし「歪めて」いる事例のようにもわたしには思われる。その他、この箇所以外にも類例は挙げられるだろう。そちらはその時にまた指摘させてもらうことにしよう。

 もう一つの読みはこれをあくまでリアリスティックな範囲内で説明しようとするものである。この部分を始め小説中に何度も挿入される物語内物語は、実はタックが読んでいる本のそのままではないのではないか、という疑いである。例えば、最初に一番妥当な読みとして述べたように、本を読みながら寝入ってしまったとして、その本の内容とタックの夢が混ざったようなものなのではないか。つまり本のままに記述されているのではなく、タックの見る夢や妄想が本の内容に入り混じったものが書かれていると考えてみることができるのではないか。これはタックの精神や意識が小説自体の語りを歪めている可能性とも関係する。本を読みながら寝入ってしまったタックの夢や、(本自体ではなく)本を読んでいる時にタックの頭の中で起きていること、本から喚起された彼の想像や妄想、そこには本の中のことばかりでなく、実際にタックの周囲で起きていることも入り込むだろう、そんなものがあたかも物語内物語に見せかけて記述されているのだとしたら、どうだろうか。
 もちろん、これは一つの極論に過ぎない。だがその極論すらも否定できないのである(当然、全面的な肯定も)。ただ、これは上で述べたような、語られていないこと、省略されていることにタックの精神の反映がある(つまり、語りそのものにタックの精神が反映されている)という読みをしたとしても、まだ同時にあくまでリアリスティックにも読むことができてしまう、リアリスティックな読みもあくまで否定できない、ということの一つの例として心に留めておきたい。

3.第二日目

She is awake, her eyes open looking at the ceiling, but you know she isn't ready to get up yet. Very politely, because that minimizes the chances of being shouted at, you say, "How are you feeling this morning, Mama?" (14)


 ママは目をさまし、天井を見つめている。けれども、まだ起きあがる気にはなれないらしい。ママのどなり声がとぶ確立を少しでもへらそうと、きみはできるかぎりていねいにいう。「今日の気分はどう、ママ?」 (伊藤 89)

母親との関係
 朝になりタックは目覚める(ここで、ベッドの明かりが点けっ放しになっていることから、本を読みながら寝入ってしまったことがわかる)。部屋から降りていき、一人で朝食を食べ、ジェイスンが何も言わずに出て行くのを確認するとタックは母親の部屋に上がる。上の引用はこの場面である。
 ここでまず気がつくのはタックの目に映る母親の姿である。ただ寝起きが悪いだけでは片づけられない不気味さがある。"her eyes open looking at the ceiling"(目は開いたまま天井を見つめている)のに彼女は起き上がろうとしない。ここで"you know"とタックを介した上で「まだ起きあがる気にはなれないらしい」と語ることでぼやかされてしまっているが、「起きあがる気」がないのではなく、起きていない、つまり意識も無くただ目を開いている、放心しているのではないだろうか。もちろん、これは出て行ったジェイスンとのセックスの疲労ということ以上に、後に明かされる薬物乱用の伏線になっているのである。前回述べたように、立ち寄ったドラッグストアでジェイスンが買ったであろう注射器を使用したのだろう。彼女はまだトリップから覚めきっていないのだ。
 そんな母親の様子にタックは慣れてしまっているようだ。恐らくいつものことなのだろう。「できるかぎりていねいに」声をかける姿からは、ドラッグやセックスを楽しむ母にタックがいつも邪魔者として扱われているであろうことが想像される。トリップとセックスの余韻に浸っている彼女にとって、息子タックのかける声は邪魔でしかないのだ。
 一方タックの方も、物語の冒頭から示されているように、誰からも必要とされない、それどころか邪魔者として扱われるような立場に慣らされてしまったようである。彼は誰もいないキッチンに一人で用意したオートミールを食べ、母親の機嫌を取るためにコーヒーを温めておく。昨日とは打って変わって、ことの済んだジェイスンは母親の機嫌を取る必要もなくなったので、タックと口を利きもしない。目覚めた母親は、息子のことよりまず先に愛人ジェイスンのことを尋ねる。そして"You go back downstairs now, Tackie. I'll get you something when I feel better."(14)「下へ行きなさい、タッキー。気分がもっとすっきりしたら、何かしてあげるから」(伊藤 90)と寝室から追い払う。仕方なくタックは、また海岸へ行く。

長くなりすぎてしまったせいか、書き込みが重たくまたPCがすぐハングする。今回はここで中断することにしよう。

言及した書籍など

Gene Wolfe "The Island of Doctor Death and Other Stories"
Island of Dr. Death and Other Stories and Other Storiesに収録。

特に記載の無い限り、カッコの中のページ数は全てこの本に対する言及とする。せめてこれくらいは形式的な書籍情報も書いておく。

Wolfe, Gene "The Island of Doctor Death and Other Stories", rpt. in Gene Wolfe Island of Dr. Death and Other Stories and Other Stories (1980), pp.11-25.

ジーン・ウルフ「デス博士の島その他の物語」 伊藤典夫
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア他 中村融 山岸真 編 『20世紀SF〈4〉1970年代―接続された女 (河出文庫)』に収録。

和訳は問題のない限りこれを使う。何かしら理由があり私訳している場合は別に明記する。

若島正 「「デス博士の島その他の物語」ノート」
S-Fマガジン 2004年10月号 掲載

本文中ではたいてい「若島ノート」として言及する。同号はジーン・ウルフ特集が組まれている。この記事の他にも同雑誌から言及することもあるかもしれない。

mixmaxさん*1 「『デス博士の島その他の物語』をめぐる物語、またはDeathnaut

読書会の前にウェブで関連記事をいろいろあさっていたが、「若島ノート」(この呼称自体この方の記事から借用しているのだが)のまとめとして、またこのmixmaxさん自体の読みとして、両方の意味でわたしには楽しめた。

(11/23 追記)
その後、わたしの記事にもご丁寧にお答えくださりながら、さらに進められたmixmaxさんの読みをご紹介されている。

*1:一人だけ敬称をつけるのも変ですがなんとなく。