死者たち

 結局昨日は六時半頃から、教えていただいた「クウカイ」で飲む。結構大量に飲む。わたし以外は普段はあまり日本酒を飲まない方ばかりであった。お店の人に教わりながら彼らもいろいろ楽しんでいた。さほどわたしは好きではないので良し悪しはしっかり分かってないが、吟醸酒が好きだという人が多かった。
 その後一名欠けて四名になり、百萬遍まで歩き「のら酒房」で飲む。一階の本屋にはしょっちゅう行くが、ここは初めて。出来てから間もないらしい。今回は行かなかったのだが、他に教わった「おむら家」も一年ほど前に出来た店とのこと。行ったことがあるような気がしていたが、別の店と勘違いしたようだ。
 朝四時に解散。その後昼からほぼ同じメンツで読書会。五歳も若い後輩が、朝三時過ぎてもわたしともう一人が元気に飲んでいたことを不気味がる。若いくせに、と思う。でも、そのもう一人は二日酔いで読書会を欠席。わたしも半死人だった。


 酒の誘いは断らない、飲む時に後のことは考えない。馬鹿だと思うがそんなモットーの元に生きてきた。ただ自分が酒を飲むための理由づけが欲しかったというだけである。言い訳や何か指針みたいなものが無ければ酒も飲めないという程度の人間であるというだけだ。くだらないことだ。くだらないモットーでも、しかしそれを持ち続けているためにはちょっとした努力も必要だった。飲んだ後のことを考えないためには、例えば翌日何があろうと、日ごろと同じようにその日の予定ができなければならない。当たり前のことなのだが、翌日仕事が入っていれば、やせ我慢の一つもして、二日酔いがどれだけだろうと自分からはおくびにも出さず普段通りに、できれば普段以上に、働けなければならないのだ。そうしたことができなくてはそんな馬鹿なモットーさえも保てない。だから朝の四時まで学生と飲んで、九時前から平然と演習をこなした教授の姿には共感もした。もう少し皆さんがつきあってくれれば、休講にしたんですがね、という言葉を二日酔いの鐘が鳴り響く頭で聞いたときには殺意を覚えもしたのだが。
 この日読書会を休んだ後輩を、それで甘いと感じてしまうのはやはりわたしの勝手なのだろう。一緒に飲んでいたわたしも悪いし、彼女はそもそもわたしのペースにあわせてくれていたのだろう。だいたい自分自身にしたところで、徹底できてもいないではないか。二日酔いを飲み込んで何食わぬ顔で出席したが、とても普段通りにできていたとは言えないだろう。論点をろくに出すことさえもできなかった。誰かの質問に答えたり、感想を言うというのがせいぜいで、議論は他の人々たちに進めてもらった。半死人だったのは間違いない。そんなわたしが彼女のをことを言える口はどこにもない。それにそんなモットーすらも近頃はもう流行らないのだろう。どだい酔っ払いのバカな言い訳に過ぎないのだ。


 もう少し若い頃までバカな飲み方ばかりしていた。サークルなどの後輩たちを引き連れて、上等な酒も安酒も関係もなく流し込んでた。味わうためと言うよりは、酔い騒ぐためだけの飲み方だった。もちろん酒の味を楽しむために飲みに行くこともあったのだが、そんな時でも酔いが回るとまたいつもの馬鹿飲みになった。もったいないことをしたと思う。二十代も半ばを過ぎた頃からか、そんな酒も飲まなくなった。世間でもそうした飲み方に風当たりも強くなり始めていた。
 もう飲めません。なんて言葉はわたしの周囲では許されなかった。酒は吐くまで飲んで当たり前、むしろ吐いてからが本当の酒飲みであると教育されてきた。吐いたら、またその分飲みなおせるではないか。それが当たり前の社会では、もう飲めません、という言葉が通るはずもないのである。飲めませんなんて言えているうちは、飲んだ内にも入らない。そんな共通観念があった。
 なるほど、それはまだ酒が足りない証拠だ。それがお決まりの返事であった。何があっても「酒が足りないこと」になった。どこのサークルも恒例と思うが、後輩たち、とくに新入生の恋愛ざたは格好の酒の肴にされる。ちょっとでも口を渋るのがいると、「酒が足りない」から喋れないと解釈された。まして喋れば何かにつけて(「そうか、おめでとう」「残念だったね」「よし、お前の恋がうまくいくのを祈って」)先輩全員と乾杯するのだ。みんなで一斉に、ではない。例えば先輩が八人いたら、八人一人一人と一対一で乾杯する。当の本人はそれで八回、乾杯させられることになる。
 とにかく量を飲むのが美徳とされた。それがどんな酒であっても変わらない。金銭的な問題もあり、ビールか安い日本酒のことが多かった。そんな雰囲気の集まりでは、自分のコップにいつまでも酒が残っているのは恥だった。皆注がれると数分の内に空にした。そして空いたコップにはすぐに誰かが酒を注いだ。そのうちにそれはルールになった。注がれた酒はぬるくなる前に干さねばならない。干されたコップは周囲のものが直ちに注いでやらねばならない。なぜか手酌は禁止だった(正確には、周囲の者の恥とされた)。そして破ったものには罰則として、さらに一杯飲まされた。乾杯は当然、言葉通りに杯を乾かし、遅刻者は駆けつけ三杯を飲まされた。アルコールを消費するのが美徳であって、誰かが何かちょっとしたことを言うたびに、みんなが群がり一人一人の乾杯を求めた。
 わたしが所属したサークルは、本来音楽の団体であり、みんながみんないわゆる体育会系のノリで酒を飲むわけではなかった。だがこの組織にはちょっと変わった仕組みがあった。サークルの中にいくつもの小サークルが出来ており、全員そのどこかに入っているのだ。新入生として初めてサークルに入った時に、本人の希望とは関係なくどこに所属するかが決まってしまう。全体では男女合同の集まりなのだが、それぞれの小サークルは必ず男性だけ、女性だけで組まれていた。そしてそんな小グループ毎に特色のようなものがあったのだ。
 わたしがいたのは、まさに酒ばかり飲むところであった。雰囲気も体育会系に近く(それはこのグループだけではなかったが)、酒がたくさん飲めることが、その中での地位だった。グループだけで出かけると、戦争でも仕掛けるような勢いで酒を飲んで歩くのだった。サークル全体での飲み会は月に一度程度だったが、グループ単位での飲み会は毎週のように開かれた。多い時期には週三回は飲み会があった。OBたちもサークルそのものから引退しても、グループの集まりには誰彼顔を出していた。そんなこともありサークル内のグループとはいえ、少ない時でも十人ほど、多いときには三十名規模の飲み会になった(他グループから酒好きのゲストが来ることもあったが極めて稀だった。他グループからわれわれの飲み会は、もちろん、恐れられていた)。
 このグループに組み入れられた酒の飲めない新入生はこの風習のこともあり、五月を過ぎればたいてい淘汰されてしまった。だから先輩たちはみな多少は酒が強かったし、弱い人でもそれなり酒好きばかりであった。トイレと往復しながらでも、平気で酒を飲んでいた。そんな人々であっても、毎回何人かは(多いときは過半数が)潰れてしまう。その上騒ぎもするのである。好意的な店もあったがたいていの居酒屋からは嫌われた。なのでいつも交代で個人名で予約を入れた。
 とにかくたくさん飲むために、そしてさっさと酔うために、会にはいくつかのルールがあった。ルールを破ればペナルティがある。その分よけいに飲まされるのだ。述べたように体育会系の雰囲気に近く、定石通り後輩は先輩に絶対服従であったのだが、ルールを破れば先輩であれ容赦なく酒を飲まされた。ルールは日々増えていった。わたしが入ったばかりの頃は、乾杯は杯を飲みきらねばならない程度であった。二回生の頃には駆けつけ三杯のルールができて、ウィスキーのワン・フィンガー(いわゆるシングル)、ツー・フィンガー(ダブル)が縦になった。本来いわゆるワン・フィンガーとはグラスの底から指を寝かせて一本分の太さにだけウィスキーを注ぐのである。ツー・フィンガーなら人差し指と中指を重ねた分の太さになる。それが指を縦にして、人差し指の「長さ」分だけウィスキーを入れることになったのだ。ツー・フィンガーは人差し指と中指を重ねて縦にしているので、実際には中指の長さと変わらない。左右の人差し指を継ぎ足して、指二本の長さにしようという話もあったが、細長いグラスでないと入らないのでそれは実現しなかった。
 また乾杯の判定も厳しくなった。少しでも残っているとペナルティの一杯とやり直しのもう一杯で、さらに二杯を飲まされた。翌年までには、自己紹介や挨拶など、全体に何かを話す時には挨拶代わりに一杯空けるというルールが出来た。誰かが何か発言するたび乾杯されるようになったのもこの頃だった。お酒を注ぐ時にこぼしたり、場を白けさせたりした人への制裁も年々厳しくなっていった。注がれたグラスもなるべく早く飲みきらないと、「まだ入っているんですか」など後輩から言われるだけでペナルティになった。とにかく早くたくさんの酒を飲み、全体で乾杯する時には(当然、乾杯なので一気にみんな飲み干すのだが)一番遅かった者はさらに三杯飲まされた。そんなペースでみんな飲むのでお店の人は目を白黒させていた。すぐに空になってしまうので一度に注文する量も人数に比べて多かったかと思う(当時、ピッチャーは今ほど普及しておらず、瓶ビールが主流だった)。一度、十人ほどでビール瓶を百本以上あけたことがある。水としても身体に入る量ではないし当然みんな吐きまくっているのであるが。
 酔うことは恥とされ、しかしそれは酔わないよりも恥ではなかった。飲まないことはさらなる恥であり、飲まないくらいなら飲んで潰れることを選んだ。なによりの恥はひとに迷惑をかけるような酔い方をすることであった(そもそも、動けなくなった酔っ払いが転がっているだけで店には迷惑なのだが)。そして一番の恥は冷たくなることである*1。上級生は酔っていないようなそぶりをしながら飲み続けたが、立たせてみるとみな歩けないほど回っていた。誰もがトイレと席を何往復もし、その内便所から帰ってこなくなる者もいた。たいてい瓶ビールから始めるのだが、そのうち会が日本酒に進むと歯が欠けていくように空席が目立った。もはや限界を超えてしまい、体を起こしていられなくなったり、また座り込んだまま動けなくなったり、眠ってしまったり個室トイレから出てこなくなったりした者たちを「死者」と呼び、「死者」は棄てていくのが非情の掟なのだった。飲み屋の中で棄てられたものはまだよいが、屋外で棄てられるのは悲惨であった。わたしも一度北白川の天下一品の前に棄てて行かれたことがある。このルールは後に改正された。三次会から四次会へ進むため百萬遍の横断歩道を渡って行くと、一次会あたりで飲み屋に棄てて来たはずの死者が中央分離帯の植え込みに突っ伏して眠り込んでいたのが発見された。新年明けてまもなくの頃、冬のさ中のことであった。以後あまりに危険なので冬は暖房のあるサークルボックスまで棄てに行くことになった。人の棄て方の教育も新入生に叩き込んだはずだ。眠ってしまった酔っ払いは絶対に、仰向けにして棄ててはならない。ボール紙や新聞を敷いて置くのが望ましい。まだ動いたり意識のある死者ならよいが、眠り込んでしまう酔っ払いが一番困った。そしてどこまで行ったら救急車を呼んだ方がいいかの見極めも。酔っ払うことと、酔っ払いの世話と、どちらも必須の教育項目なのだった。
 それからもルールはどんどんエスカレートしていったが、一方で酒の強い人々は減り続けた。ありえないほど強く見えた先輩たちも家庭を持ったり、就職、転勤で顔を出さないようになった。世間に急性アル中の恐ろしさが広まったこともあり、新しい下回生たちもそんな馬鹿な飲み方にはついてこないようになった。みんな年々弱くなり二次会くらいで皆潰れてしまうので、人が棄てられることもなくなった。二次会三次会と重ねるよりも、カラオケや麻雀などが好まれるようになった。そのうちわたしも行かなくなった。その後どうなったかは分からない。

*1:急性アル中の程度が酷いと、体温が下がり、死なないまでも本当に冷たくなります。なおここに書いたような飲み方は危険なので、なるべくしないでください