ある悔恨

 昨日は今までで最も行きたくなかった中間発表会に行った。わたしはその日の発表者を心底嫌っている。だが、彼に対する、恐らくは身勝手な、嫌悪が足を遠のかせる正確な原因ではないのだろう。ともかくも非常に行きたくなかった。ならば行かなければよいことだが、それも自分に許せなかった。様々に込み入った理由があって、もちろんその全てはわたしの個人的なこだわりにしかすぎないし、誰も理解もしないのだろうが、わたしはどうしても出席しなければならない気がしていた。たぶん、自分の中で保留していたもの、保留せざるを得なかったものと、決着をつけたかったのだろう。


 わたしは他人に対する情緒の起伏はそこそこ激しい方だと思う。ちょっとしたことで人を好いたり、嫌だなと思ったりする。だが、それはあくまで感情の一番表面の部分で起こる小波に過ぎず、それ以上他人に何かを感じることはあまりない。好悪の感情もただその場限りのものだし、それでどうこうと思うことはない。だから好悪の両方が同じ時、同じ人に感じることもあるし、どちらにせよすぐ忘れてしまう。たぶん、わたしは冷たいのだろう。
 そんな性格なのでその場の限りのことを越えて、この人は好きだ、この人は嫌いだ、などと後々まで残るような判断をすることはほとんどない。そもそも、そこまで他人に興味もない。彼らがどうだろうがわたしには知ったことではないのである。だが、そんなわたしにも、どうしても許せないことというのがありはする。


 もちろん、わたしは立派な人間というものからはほど遠い。冷たいだろうし性格も悪い、その上、人に寄りかからないでは立てないほどに弱くもある。だが、みんなそんなものだろうと思う。自分の醜さや弱さを抱えて、それを時には露呈しながらも、互いに許しあい時には支えてもらったりしながら何とか立っているところがある。少なくとも、わたしはそんな程度にしか生きられない。それを情けないと思うくらいの自意識はまだ保っている。
 それを省みることが出来ない人種にはわたしは我慢がならない。辛いのも苦しいのも自分だけだと考えて、他人に甘えさせてもらってもそれをさも当然の権利と思っている人々を、わたしは許すこともできない。この男もそんな奴だ。なぜ自分だけがたいへんなのか、なぜ自分だけが苦しいのかと見せびらかして歩きながら、けっして自分で何とかしようともしてみない。それで迷惑をかけられる人々のことを気がつきもしない。
 一方で他の誰かが、無様に人に支えられながらでも、何とかぎりぎりのところで立っていようとしているのを見ると、大仰に騒ぎ立て、苦しんでいる人を馬鹿にし、それを支えている人には、そんな奴を助けるのはやめて自分を助けろと平気で言える。彼の醜さをわたしは許すことができない。以前書いたが、わたし自身の母親もこの種の人間の一人であった*1。この女とだけは、一生、折り合えることもないだろう。


 この発表者の男と知り合ってから、もう五年以上になる。五年の間に彼の様々な面を見た。良いところも、悪いところも。だが結局、わたしは彼を好きにはなれなかった。そうした良し悪しを越えて、どうしてもわたしには許すことのできない、酷い言葉をあえて使えば、人間性の浅薄さが彼にはある。もはや、生理的に嫌いな人間という言い方さえできるかもしれない。
 かわいそうだと思ったこともあるし、彼の中に好きだと思える面もある。それに、知り合った頃から気がついていたことなのだが、この嫌悪感は自己嫌悪でもあるのだろう。わたしの中に確かにある、どうあっても許すことの出来ない醜さと同じものを、彼の中にも見つけてしまったのだろう。過去にも何度か手を切ろうとしたこともあるし、しかし彼の情けない様子にほだされて切りきれなかったこともある。しかし今日こそ、彼を見捨てることにしようと思う。わたし自身の中にある彼の醜さを拒絶するために、彼を切り捨てようと思う。


 口だけのオプティミスト、それが彼だった。だが底の浅いオプティミストだった。だいたいそれはオプティミストですらなかった。ものごとの明るい面を言ったり、見たりするのではなく、ただ彼自身にとって都合のいい面だけを言おうとしているに過ぎなかった。だから彼の口調は、〜だと思うよ、〜だよ、と自分の意見を述べるようなものではなく、常に、〜しようよ、〜しましょう、〜しなさい、と人に押し付けるものだった。そしてそれを否定されると、聞く耳を持たないという調子になった。すぐに機嫌が悪くもなった。一方でその口調の裏には、自分の言っていること自体を自分自身信じきれない弱さがあった。初対面では明るい親切ないい人と感じるのだが、すぐにその裏側の軽薄さに誰もが気がつくようなところがあった。結局、裏では全員が彼の口調の真似をして、馬鹿にされているような人だった。
 女性たちにはなお評判が悪かった。三、四年前には酔っ払って、誰とも付き合ったことがないと言っていた。典型的なもてなさそうな男であった。そして女性経験がない分、よけいにもてなくなるのだった。彼は女性をまるで知らなかった。どうすれば気に入られるか、どうすれば嫌われるか、そもそも彼が「女性」と思っているのは彼の頭の中にしかない女性像であった。
 ありえないようなことを平気でした。次々に女の子に手を出しては順番に振られていった。知る限り研究室の女性の半分以上に手を出している。手の出し方も酷いものだった。これまでストーカーとして訴えられてもいないのが不思議にさえ思われるような男であった。待ち伏せしたり、相手の家に押しかけたり、実家にまで電話をかけたり。その程度は序の口で、下級生には有無を言わせぬ先輩の口調でデートを迫り、振られると何で自分を振るのかと犯罪者を責める口調でなじり、挙句の果てには、次はこの女の子を狙うから、振ったんなら協力してくれとまで言う男であった。学生相手ならまだともかく、既婚者のそれも研究室の助手さんにまで手を出した。
 ついには彼がいるから授業に行けない、学校に来れないと言い出す女の子まで現れた。何度かそれで注意もしたが、自分を振る女の方が悪いと心底信じきっている調子で、全く聞く耳も持たなかった。飲み会でも何でも彼が来ると誰も嫌がって来ないので、結局彼は誘えなくなった。しかし、どこかで女の子の来る集まりがあると知ると、呼びもしないのに必ず現れるのだった。酒が入ると酔っ払って下級生に抱きついて回った。
 知っている人はみんなが彼をいやがっていた。そうした噂は表に出るまでは流れることもないのだが、誰かが一度出してしまうと、次から次へと広がった。一度被害が出た学年からはもう始めから相手にされないようになった。なので彼はどんどん下の回生へと手を広げていった。浪人、留年を繰り返していた彼からすると、年齢差は10以上にまでなっていた。
 同性のわたしですら、彼にまとわりつかれるのは迷惑だった。だがどこか切り捨てきれないものもあるのだった。同じ理学部出身ということもあり、他の人からはわたしとセットのような目で見られてもいた。それも非常に迷惑だったが、何より困るのは、そうした被害を受けた女の子からの対応である。最初のうちは、まず同類と思われた。彼と同類にされるのはわたしの誇りも傷ついたのだが、後にそれはまだマシであったことが分かった。そのうちに同類でないことが知れると、被害を受けた女の子たちから窓口のように扱われた。これが一番困るのだった。みんなが迷惑していること、口も利きたくもないこと、そしてしばらく女の子たちのいるところには顔を出さないで欲しいこと、それを彼に伝えるようにと一部の女性方に言われた。そこまでしてしまうのは可哀想だし、せめて自重させるくらいで許してもらえないだろうかと思ったのだが、そもそも彼には自分が悪いことをしている気も、自重する気もないのだった。そのことに触れると彼の機嫌も悪くなった。わたしには彼を切ることはできなかった。
 結局そんな話をして以来、彼との仲も悪くなった。他の人たちの気持ちや動機をどこまでも分かろうとしない人だったと思う。それが異性でも、同性でも。彼にはっきり、来るな、と告げるのを許してもらう代わりに、なるべく被害が増えないようにフォローはした。またどこかで誰かに手を出そうとしているのを知ると、女の子たち伝いに、そういう人だから気をつけてね、と伝えさせたり、女性の先輩たちから下級生を(そして彼自身を)守ってもらえるようにも伝えた。彼と話すことは以来ほとんど無くなった。向こうはわたしの顔を見ると、むしろ避けるようなそぶりを見せた。それからもいろんな女性たちに手を出し続けていたりした。飲み会になると彼は必ず泥酔して女性に抱きつこうとするので、都合の許す限りは彼の出る飲み会には必ず出席するようにした。わたしだけでなくいろんな人にその狼藉を邪魔されてしまうので、そのうちに彼は自分一人と女の子数人で遊びに行く企画を立ててもいたが、ついてくる人はいなかったらしい。彼のあのしぶとさだけは、羨ましくも思いもした。


 わたしが、しかし、それでも彼を見捨て切れなかったものは、何だったのだろう。彼の、よい面に惹かれていたとかではないだろう。そして、何かに共感したのでもないだろう。何だろうか、はっきりとは分からない。だが何かの悔いのようなものがあったのは確かだった。たぶん、わたしは彼をそこまでになる前に助けられたはずだ。だが、わたしは自分の弱さのために、それができなかった。その悔いを残しているのだろう。結局、彼のためにとしてきたことも、所詮は自分のその悔恨を贖うための、自己満足でしかなかったことも知っている。しかし今、その悔いも、そして彼の中に見つけた自分自身の醜さも、彼もろとも切り捨てようと思う。わたしは酷い人間なのだろう、その酷さも彼の傷も引き受けよう。わたしは彼を切り捨てようと思う。