五歩分の将来

 年末という時期は(年度末も同じだろうが)来年の予定などということをよく聞かれる。地球が太陽の周りを一周する軌道の上のこの場所が、年の変わり目に選ばれていることの意味まではわたしは知らないが、こうした質問をされるのはこの季節に特有のことだと思う。
 来年は? という質問を最近よくされる。来年に限った話ではないが、先の予定を聞かれるのは一番苦手な種類の疑問だ。わたしは未来と相性が悪い。計画を立てたり将来を設計したり先のことを考えながら生活するのが苦手であるのだ。それが近い未来であれ、遠い未来であれ。来年生きているかもわからないしね、とつい答えたくもなる。
 人との約束なども、だから立てることがなかなかできない。その他の計画も、社会人ならば完全に失格であるだろう。立派な社会人になる気は毛頭ないが、それでも何とかしなければと思うこともたまにある。
 だが未来がわたしを嫌ってるように、わたしも未来が嫌いである。将来こういう風になっていたいとか、いつかこんなことをしたいねとか、きっとあなたはこんな風になってると思うよ。そんなことを話している人を見るとつい意地悪もしたくなる。五歩だけ一緒に歩いてみよう。一歩目、それがあなたの十年後だ。そろそろ首のあたりにシワも出始め、自分が無理のきかない体になったことを実感するだろう。もう一歩進もう。二十年後、体力ばかりか精神的にも衰えてきたのが体でわかる、同世代の友人たちにも成功して名が売れたのもいれば、消えていったのもいる。喪服の出番もあるだろう。さらに一歩。三十年後、孫のいるような友人もいるだろう、髪には艶もとうに無く、半分以上が白髪であるか、生えてさえいない。体型も顔の形も声の響きも今とは全く違うだろう。四十年後、同世代の何割かは既に鬼籍に入っている。五十年後、まだ生きている確立がどのくらいあるだろうか。生きていたとしても、呆けて何も分からなくなっているかもしれない。大切な人々や大切な何かを失いすぎて、それが大切であったことすらわからなくなっているかもしれない。五歩の約束だったが、もう一歩だけわたしは進む。わたしはとうに朽ち果てて、骨も形すら残っていないだろう。分解されたカルシウムが水に溶け、どこかで小さなあぶくになっているだろう。わたしを覚えている人などとうに誰もいなくなっている。
 こういう意地悪はあまりするものではない。たいていの人に嫌われる。だが、わたしは誰を見るときにでも、その人の十年後、三十年後、五十年後、そして百年後の姿を想像せずにはおられない。もちろん、わたし自身も含めて。これがわたしにできる唯一の計画、未来との折り合いである。