書くことについて、それから書かないことについて

 ただ何かを書くということができなくなったのはいつだったか。はっきりした転換点の記憶はない。ある時我に返ると、ただ言葉を言葉にするということができなくなっていた。
 昔、それこそ二十歳にもなっていなかった頃は、そんなことはなかったかと思う。どう書いていたのか? 十かそこらの頃、イトコに宛てた手紙、身の回りの取るに足らない広大な世界とその中央にいた自分、いつもマス目をはみ出した漢字の書き取り、がさつな太さの鉛筆文字はわたしの暮らしていた日常と確かに地続きだった。中学の終わり頃、何年かに一度ほんの数週間だけつけられる日記、誰にも読まれるはずの無いそれですらわたしは誰かに宛てて書いていたと思う。十代の終わりから二十代の前半にかけて、下請けのプロダクションに回ってくるささいな雑誌記事、与えられた資料とテーマはいつも結局使えなかった、たいていは好きなように書いてしまった。それについて何かを言われたことはない。少なくともその頃までは、わたしが書こうとしたこととわたしが書いたことの間には、省みる予知も無いほど単純明快な一対一対応が成り立っていた。
 言葉にしようと思うたび、立ち止まるようになってしまったのはいつからなのか。なくしたものは何だったのか。あれこれつまらないことを巡らせて、浅はかな作為と逃れられない演技を凝らし、それでも語り終えなければならない言葉を捜す。闇雲なその循環の果てにわたしは何も書けなくなった。わたし自身が希望したこと、そうあることを望んだこと、それが虚構にしかならないとしても、どうしても語られなくてはならないものは、まだ身の内に静かに眠る。
 まだ、書けない。