シーシュポスの岩を磨く

 ゴールデンウィークに大掃除をした。
 わたしはこの一年間、あるいは二年間に何度、自称「大掃除」をしただろうか。多分に偏執的なところがあり、何かをするとなったら並外れて細かい。絨毯のちょっとしたほつれから、壁紙に浮いた小さな染みは序の口で、家具を動かしケーブルを束ね、小物や本も一冊一冊からからに絞った雑巾で拭く。部屋の破れ目やささやかな穴は針と綿棒で掃除する。思うに、わたしはそうしているのが好きなのだろう。
 だが一度として最後までやり遂げたことはない。ベッドとちゃぶ台の周辺とか、あるいは本棚とコンピューター周り、それでなければ台所など、部屋のどこか一部の器官を徹底して洗い尽くすだけである。何のことはない、片のつかない残骸が定期的に移住していくだけである。去年の春には水周りを掃除した。流し台のうえしたに、これ見よがしに寝そべっていた本や食器やこまごまとした昔の雑貨が洗濯機の周囲に引っ越した。初夏の頃にはパソコン関係を動かした。ちゃぶ台の上が捨てたはずの書類でいっぱいになった。秋口には本の山を台所へ持って行った。冬にはクローゼットを空にした。どれもこれもいつかは大切だったもの、安物の時計や動かないおもちゃ、樹脂が溶け出してくっついた雑貨、そんな捨てるしかないものばかり、今はベッドの脇とデスクの裏にかたまって流れ着いている。
 そんな疲れたがらくたを目の届かないところへ押しのけて、薬品を染み込ませた雑巾で無心に床を削っているわたしは恐らく滑稽なのだろう。部屋のはらわたをひとつ組み替えひとつ動かし洗っている。汗をかいたことだけに満足して腹部がうめく。だが今度はなにもかも捨ててしまおうと思う。