練習として

 昨日のスポーツ紙にこんな記事が載っていた。手元に現物が無いのでうろ覚えで書いているから細部は違うかもしれない。阪神、金本選手がその記者とともに焼肉を食べに行った折のこと、金本はまだ初めの一皿も食べ終えぬうちに腹をさすり、満足の表情を浮かべたらしい。成績はよいが、けっして調子も体調も万全ではなく、特に最近は食欲があまりわかないという話だった。だが、しばらくその余韻を楽しむと、テーブルに向き直り、立てかけられたメニューのはじからはじまでを注文した。驚く記者に金本は、自分にとってはここまでが食事、ここからは練習なのだと笑った。
 「ここからは練習」と、食べざるをえないことにわたしは名指し難い感情、せつなさに似たものを感じていた。多分自分自身にもある感覚だったからだろう。例えばひとと接することにも、何かを話し、笑いあい、軽い冗談と挨拶を交わす。あるいはTVを見たり、本を読んだり、何かを書いたり、メールを出したり、そんなことが「ここからは練習」になる瞬間を時々わたしは見つけてしまう。金本のように立派なことでも誉められたことでもないのだが、ただ普通にしていることが、多くの人びとにとっては楽しみのためにもなりうることが、しばしば「ここからは練習」になってしまう。もちろんリハビリなんてそんなものだが、それは情けないことなのだろう。だが大方の人々にも、自覚的に練習しようとしないにしても、ありうることであるのかもしれない。