焼け野原にて

 昨日からブックマークを使っている。実は昨年末から今年の五月(四月だっけ?)くらいまでここを離れていた。離れていたというのは、例えば他のところで日記をつけたりしていたとか言うのではなくて、はてなだけでなくその他のネット活動も含めて全てから身を引いていた(わたしは活動休止していたりするものまで含めれば、ここの他にサイトやら何やらを五つほど持っている。とはいえ、どれも管理しているだけで、ここのような私的なページではないが)。せいぜい調べものがある時にGoogleはじめいくつかの検索を回るくらいで、ほとんどネット自体繋いでいなかった。メールチェックはたまにはしたが、返事はすべてひと月くらいは遅れて出した。今思えばわたしが隠遁してたのは、単にネットからだけのことではなく、日常の生活からもやや腰を引いて暮らしていた。それはいわゆる引きこもりとは違うし、何か別のところに(かつてそんな時期があったが、読書などに)没入していたというのとも違う。出かけなければいけないところも無かったが、それでも参加している読書会などには出ていたし、研究室の飲み会などにも顔を出した。事務的な用事もそれなりこなしていたと思う。学業は疎かだっただろうが。どこに行ってもひとに会った。誰かと出かけるというのではなく、ただ人のいるところに出向いただけだ。知っている人、先輩後輩同級生たち、あるいは先生など、そういう人のいるところ。あるいは知らない人たち、たまたまその日入った店で、たまたま隣に座った客、わたしがCDを持っていった時にたまたま入っていたレジ打ち、あるいは週に一度くらいの割合で立ち寄る喫茶店の、顔と声だけは知っているようなオーナー。彼ら知っている人たちと知らない人たちとの間には、しかしなんの違いもなかった。挨拶や会釈を交わす、四方山噺、二言三言、近頃顔を見ない人たちの消息。ブラウン管の登場人物たちが喋るのにも似て聞こえた。わたしはどの話題も持ち帰らなかった。他人と関わるのを避けていたというわけでもない。そんな意識はなかった。わたし自身は気がついてもいなかったが、やはり今思い返してみると、それは少し自分の通常から、はずれた状態だったのだろう。何に対しても無感覚、無感動で、だが意図してそうしているわけでも、それに気がついているわけでもない。例えば、それが苦しかったかと問われたとしても、わたしには答えようがない。去年の今ごろの、ただ生活していることが自覚的に苦しみだった時期とは違う。むしろ感覚が無いというのが近い。だが苦しんでいなかったのかと言われると、それもまた違うのではないかと思う。今にして思い返してみると、それはやはり苦しかったのだと思う。そのこと自体に気がついてなかったとしても。あれはある種の焼け野原だった。ニックではないが業火で焼き尽くされた痕跡の残るただれた地面を歩んでいたのだと思う。おそらくわたしはまだ、この荒野の先にいる。
 だが春になり、その様子もいくぶん変わった。もちろん、単に季節的なものかもしれない。しかし焼け爛れた原野を歩いた、今まだその先を歩いている、そのことそのものが、わたしを苦しめ続けた炎からの回復に向かう道程であった気がするのだ。三月ごろに既にその意識があったかは分からない、いつしか、どこにも何の根拠もないのに、これは必要なことなのだ、わたし自身にとって、大切な、どうしても遂げなければならない儀式なのだと思い込むようになった。炎が止むことは無いだろう、この荒野を脱しきることもあるいは無いのかもしれない、それでもこの先に何かがある、そんな正体のつかめない曙光を見た気がした。自分が何かに変わろうとしている、それこそ草野正宗の語で言えば蛹のような、その感覚はもしかすると盲信なのかもしれないが、だがしっかりとわたしを掴み捉えている。
 わたしがそんな隠遁生活をしている間も、当たり前だが世間では時間が流れていた。暮らしの周囲の小さな世界でも、あるいはTVに映る大きな世界の断片にしても、それらと隔絶している間にも時計は進んだ。多くの出来事があっただろう。また知らない間に大切なものをたくさん失ったのだろう。わたしはそれでも、まだ歩き続けていく。もうその頃のように、何からも身を引いてしまうことは無い。長年野ざらし油は切れて、挙動もぎくしゃく、アクセルを吹かせば止まらなくなる、そんなロートルかもしれない。だがクズはクズなりに、何かに変わっていこうと思う。何を失ったのだとしても、これから失うのだとしても、それもわたしが気がつかぬうちに――誰かが言ったが、大切なものほど失ったその時は気がつかないものなのだ。取り返しがつくものなのかも、今はまだ分からない。


 わたしがそんなことをしていた時期に、このはてなもいろいろ変わったようだ。新しい機能やサービスが多方面に提供されている。どうも乗り遅れてしまった感もあり、導入には消極的になっていた。乗り遅れることの一番の問題は、それがどういうサービスなのか、自分一人で捉まえなくてはいけないことだ。既存のものとどう違うのか、何がメリットになるのか、そしてどんな使い方ができるのか。それが新製品だった時には、そんなこと誰にも分からない。ユーザー同士が情報を互いにやりとりする中で、それが何なのかが明かされていったり、あるいは作り手の想定を超えて新しい使用法がなされたり、新バージョンに採り入れられたりということもあるだろう。こうしてそれが何なのかが、発見され、発明され、進化していく。乗り遅れが困るのは、これらの過程を(進化、発明はともかくとしても)一人でやらなければならないことだ。便利な使い方が分からなかったり、それ以前に、そもそもそれは何のためのものなのかが分からない(例えば、わたしにはRSSリーダーとアンテナの違いが掴めない)。そんなこともあり、どうも気乗りがしなかったのだが、使ってみるとブックマークはなかなか便利だ。正しい(?)使い方なのかは分からないが、ちょっとしたメモ代わりに使っている。自分が読んでひっかかった記事などを、何に引っかかったのか軽いメモを添えてスクラップするのに使い手がよい。以前読んで気になっていたり、あるいは新しく見つけた記事を昨日から十ばかり入れてみた。これはなかなか便利である。わたしの使途は一時的なスクラップであるので、用が済めば消してしまうのであろうが(どうもこの点で他の方々の使い方とは違う気がするのだが)、一時的な覚書としてたいへん気に入っている(先日のコメントでツールバーを教えてくださったお二人、どうもありがとうございました)。

  • 余談として

一巻(われらの時代・男だけの世界)の画像が無かったため、二巻の画像を貼っています 
われらの時代・男だけの世界

アーネスト・ヘミングウェイ
Ernest Hemingway
高見浩訳
出版社/メーカー: 新潮社
発売日: 1995/09
メディア: 文庫

IN OUR TIME 
In Our Time

Ernest Hemingway
出版社/メーカー: Scribner
発売日: 1996/01/31
メディア: ペーパーバック

この短編集には「二つの心臓の大きな川」("Big Two-Hearted River")という傑作が収録されている。著者の短篇にたびたび登場するニック・アダムズ(ヘミングウェイ自身を投影したヒーローとしてしばしば持ち出される)が主人公の一作で、長編まで含めた中でこの作家の最高傑作ではないかとわたしは思っている。
心身ともに打ちのめされたニックが一人焼け爛れた荒野で列車を降り、原野に分け入っていく。ただそれだけの短篇で、他に人物も登場しない。ひたすらニックの様子、見るもの、浮かぶ思い出、そんなことを独特の乾ききった文体で綴っていくだけの作品だが、それが実に見事なのだ。作品中にどこにも言及は無いが、作者自身の言、及びニックの登場する他の短篇から、この時のニックは戦争帰りだとされることが多い。その真偽はどちらでもいい。ただ確かなのは、彼が精神も肉体も憔悴しきっているということだけだ。降りたところは焼け野原で、視界のはずれまで続いていく線路と、崩れ落ちたホテルの土台だけが残っている。小川にかかる橋の上から彼は川底を眺める。鱒の様子、それから置いてあった荷物を再び背負い、ニックは原野に分け入っていく。
この時初めて、語り手はニックの感情を描写する。「彼は幸せだった」("He was happy.")ただこの一言である。感情描写とさえ、言えないかもしれない。何に幸せを感じたのか、どう幸せだったのか、そうしたことは一切語られることはない。ヘミングウェイの文体と言ってしまえばそれまでだが、むしろここには、その一言しかありえないような、荒れ果てたニックの無感覚さが浮き彫りになっているように読める。
ニックがここでしているのは、やはり彼自身の回復のためのある種の儀式なのだろう(そんな論文も多い)。よく名シーンとして取り上げられるのは、後半部の釣った鱒を丸太に叩きつけて殺す場面である。しかし、わたしは前半部の末尾、列車から降り立った日の夜、この野原で一人キャンプするニックがたまらなく好きである。熱すぎたスプーンに舌を焼いて悪態をつき、コーヒーを淹れながら、そのコーヒーの淹れ方を教えてくれた昔の友人の思い出に彼は沈んでいく。あのころ自分はどんなふうに遊んだか、あいつはどんな奴だったか。ひと山当てていなくなったその男との出来事と、そうして遊んでいた彼自身の終焉を噛みしめる。この回想からキャンプで唯一人コーヒーを立てている自分に戻った時の描写が、何より素晴らしいのだ。

Nick drank the coffee, the coffee according to Hopkins. The coffee was bitter. Nick laughed. It made a good ending to the story. His mind was starting to work. He knew he could choke it because he was tired enough. He spilled the coffee out of the pot and shook the grounds loose into the fire. He lit a cigarette and went inside the tent. He took off his shoes and trousers, sitting on the blankets, rolled the shoes up inside the trousers for a pillow and got in between the blankets (142).

ここで語られるのは、ある物語、彼が捨て切れなかった、傷つき打ちのめされてすがりつこうとしただろう、だがとっくに失ってしまった物語の終わりである。もう二度と取り戻せはしないものとして、とうに彼の手を離れている、かつての彼自身の物語。それを終わらせるために、なんとか振り切るために、馬鹿みたいなことでも彼はこんな儀式を行わなければならなかったのだ。
ニックは彼の元を去っていった友人、ホプキンスの残した流儀のコーヒーを飲む。コーヒーはまずい。かつてはおいしく飲んだこともあったであろうそのコーヒーを、語り手はbitter(まずい、苦い)と形容する。実際にそのコーヒーがまずかったかどうかは、問題ではないとわたしは思う。ここで注目すべきなのは、もはやニックにはbitterとしか感じられないことなのだ。もう取り返しのつかないところへその物語が去っしまっていることに、ニックはそれまで気がついていたのだろうか? とうに失われているものを彼自身の拠り所にしようとしていたことに、わずかでも自覚はあったのだろうか? 思い出は感傷に甘くうったえるけれど、もはやそこには何も残っていない。目の前にあるコーヒーを、bitterとしてしか感じられない現実のあるいは残酷さとも言うべきものが、しかしニックにそのことを気づかせるのである。
だからニックは笑う。ホプキンスらしいや、と忍び笑いをこぼす中には自嘲まで含まれているかもしれない。懐かしさと、そして絶望的なまでに遠くへその時代が去ってしまっていることへの諦めと、そのことに気がついてもいなかった自分自身への笑いと。ニックがもらすこの笑い声を、わたしはいまだに説明しきれる自信がない。ヘミングウェイのように、ただ「ニックは笑い声をもらした」("Nick laughed.")と書くしかない。
いずれにせよ、まさしく物語は終わってしまった。彼はそのことを噛みしめる。好むと好まざるとに関わらず、どうしようもなく物語は終わっていたのである。頭が動き始めるが、彼はそれを絞め殺す。まだ、どうしても引きずられるものがあるのだろう、とうに失ってしまったと分かっていても、いや分からされたのだが、それでもまた思い出の中に引きずり込まれようとするのを、彼は押し殺したのだろう。自ら決別をつけるように、タバコに火をつけ、残りのコーヒーとコーヒー滓をたき火にぶちまけてから、寝る準備にかかる。蚊帳の内に忍び込んできた沼の手先を彼はマッチで焼き殺す。


 上の引用に訳をつけるかどうかをずいぶん悩んだ。たぶんまともな訳にはなるまい。どうしても自分の方に引き寄せてしまう。わたしはこの短篇に惹かれすぎている。おそらく自分の読みたいように文章にしてしまうだろう。わたし自身の物語にしてしまうだろう。だが、それでも、それだからこそ、今、書く意味があるのかもしれない。ともかく書いてみよう。

 ニックはコーヒーを、ホプキンスのコーヒーを飲んだ。まずかった。ニックは笑った。物語は終わったのだ。頭が動き始めた。身体は疲れ果てている、押し殺してしまえるだろう。ポットのコーヒーをたき火にぶちまけ、コーヒーかすをふり撒いた。彼はタバコに火をつけるとテントに入った。靴とズボンを脱ぎ毛布の上に腰掛けて、靴をズボン巻きにして枕を作ると、二枚の毛布を重ねたすきまに身を横たえた。 (私訳)

参考までに、新潮から同箇所を引用しておく

 ニックはコーヒーを、ホプキンスの流儀によるコーヒーを、飲んだ。苦かった。つい笑い声をあげた。ホプキンスの物語にはお誂え向きの結末だった。頭が冴えてきはじめた。が、これだけ疲れているのだから、頭の働きには待ったをかけられるはずだった。ポットに残っていたコーヒーを火にぶちまけ、その上に滓を揺すり落した。タバコに火をつけて、テントの中に引き返す。靴とズボンを脱ぎ、毛布の上にすわり、靴をくるくるとズボンで巻いて枕代わりにしてから、毛布のあいだにすべり込んだ。 (高見 196)


 ニックが眠り込むと前半は終わり、次の日の朝から後半に入る。名高い鱒釣りのシーンはこの日にある。述べたように、彼はこの道程で回復に向かおうとしているのだろう。だが、それはあくまで、回復の方向に歩きはじめたというだけである。短篇の最後の場面、この日の鱒釣りを終えて、キャンプに帰ろうとするニックの目には沼が映る。しばしばこの沼が彼の抱えた傷そのものを表していると言われるのだが(前半最後のシーンに出てくる蚊も、ここから飛んできたものであろう)、彼はまだこの沼で釣りをすることはない。短篇の最後はこう終わっている:"There were plenty of days coming when he could fish the swamp."(156)「あの湿地で釣りをする日は、この先いくらでも訪れるだろう。」(新潮訳、高見 215) わたしはいつもここの読み解きで混乱する。おそらく一番素直な読みは(新潮訳がそうしているように――わたしはこの訳本に結構な好感を持っているのだが)今回のキャンプがまだ何日か続いていて、その間に沼で釣ることもあるだろう、というのだろう。これを言葉通りに、本当に(例えば明日には)沼で釣りをするつもりなのだ、と取るのか、それとも二日目(釣りとしては初日)の終わりに、そう思ってみただけで、まだ当分(少なくともこのキャンプ中には)沼で釣りをすることは無いのだろうか。この二つの中で判断するなら、わたしには後者の方が妥当なように思われる。あるいは、このキャンプに限らず、いずれ、例えば一年二年それとも十年とかの歳月が経過して、いつかあそこで釣りをすることがあるかもしれないと思っているのか。この読みは、これだけでは全く妥当でない、正しくないような気がするのだが、もうひとつ角度の違う考えを導入すると分からなくなる。それは"fish the swamp"という表現にある。
このfish(釣りをする、釣る)という動詞は、ここで使われているように釣りをする場所を目的語にとる他に、例えば"fish trout"(鱒を釣る)というように釣り上げる魚自体を目的語にとれる。つまり、「沼で釣りをする」ではなくて「沼そのものを釣り上げる」とも読めないことはない表現なのである。先に示唆したように、この沼が彼の傷を表象するものであるならば、沼を釣り上げるとは、その傷からの完全な回復、解決を指すだろう。沼で釣りをすることが、いわば傷との対決、それから逃げたり目を背けたりするのではなく、立ち向かい、正視することだとすれば、沼を釣り上げるとはそれを打ち負かすことになる。もしもこの意味で"fish the swamp"を読むのなら、その「いつか」とは少なくとも今回のキャンプの数日中ではないように思われる(もちろん、来ない未来というのも含めて)。
いずれにせよ、この短篇中でニックが完全に回復するわけではない。ただ、回復への方向へ、ゆっくりと歩き始めたことが示されているだけである。彼はまだ沼を遠くに眺めることしかできない。だが、確かに彼は自らの意思で再び前へ進もうとしたのだ。


この短篇で語られるニックの姿は、もう賞味期限の切れた言葉かもしれないが、確かに不屈のヒーローにふさわしいと思う。格好よくはない、打ちのめされて、情けない姿かもしれない。たいしたことができるわけでもない。だがそれでも、自分の等身大の姿を見据えようとし、そしてそんな自分にできる最良の道を一歩一歩進んでいく。わたしが進んでいる道も、願わくばそんなものであって欲しい。わたしはわたしの沼を見つけ出すことができるだろうか。これを読むと、たいていそんなことを思う。


以前この短編集について、本サイトの方にちょっとした文章を書いたことがある。たいしたものでもないが、参考までにリンクを貼っておく。

ヘミングウェイ全短編1 われらの時代・男だけの世界
In Our Time