わたしについて

 去年買ったジーンズはところどころに石灰色の光線が未発達の葉脈のごとく入っているが、全体としては濃い紺色を保っている。ジャンバーは年代物で地色はまだら、崩れた型と固まった折り目の取り返しはもうつかない。濁った天気に似た薄クリームのTシャツの上、クーラー避けに直接羽織って昨日は出かけた。わたしは毎日、その日に着る服を選ぶ。
 服を選ぶようにして、わたしはこのわたしであることを選んだ。それには、例えば冷房に弱いから汗をかくのも我慢して羽織るものを着ていくというのと同じような、一種の必然があった。わたしは自覚的に、わたしであることを選び取った。それはつまり意識的な、恣意的な、あるいは作為的なと言ってもよいような選択だった。わたしにとって自然でない、身になじまない、そうすることに違和感すらあることを、あえてするような面さえあった。わたしというこの一人称も意図的に採用されたものである。
 普段わたしは暮らしの中で、わたしという一人称をほぼまったく使わない。メールを含めた書き言葉でも同じである。かしこまった場などで挨拶することでもあれば、あるいは使うかもしれないという程度だろう。そしてわたしの生活にそんな場面は年に一度もないだろう。ネット内のごく一部、この日記ともう一箇所でのチャットでだけ(とはいえ、滅多に顔も出してはいないが)わたしを基調に喋っている。日常ほとんど使わない呼称にした分、初めのうちは随分異質な感じがした。今でこそ大分慣れてしまって、携帯でメールする時などうっかりつられそうにもなるが、当初はわたしと打つたびに、サイズの合わない貸衣装を着ているような、肌寒い違和感を覚えていた。しかしその据わりの悪さの根本は、使い慣れない人称を選んだことではないだろう。
 そもそもどんな呼称にしても、自分を呼ぶということの中にどうしてもひっかかるところがあった。わたし、おれ、ぼく。どの営業所でも働かせていただけるなら自分はそれで、僕の考えた宇宙の果ては、昨日さ飲みかけにした俺のコーヒー、私は支持してくださる皆様のために。人称にはいつも何かの背景がついてくる。これほど具体的なものでなくとも、相手に対する態度や距離や自分がどこに属しているか、こうした姿勢の確認を自分を呼称する時はいつも明示的に強いられる。呼称を選ぶということは、まず自分の態度の選択に直結している。もちろん、一人称を使わない文書を書いた場合にしても、どれかの姿勢を選んだことには変わりない。何かの態度や立場をなしに書けることなど無いだろう。だがいずれかの代名詞で自分自身を呼ばされる時、ただ文字を連ねていたなら目をそむけていられたはずの、どれかの姿勢を自分が選んで書いているのだということ自体を否応無しに再確認させられてしまう。
 わたしが違和感を覚えているのは、そして慣れてもいないのは、自分の姿勢を決めるということ自体だろう。わたしはどこにも属していたくないのだ。幼稚な考えだと思うが、わたしは何物でもありたくない。わたし、おれ、ぼく、どの呼称で自分を呼んでみたところで、わたしは何かになってしまう。