異物の語り手

 何かを語るとき、わたしはいつも歪んだ自分自身の像を突きつけられている。語るということは、それ自体がその語り手の姿を規定する。語り手が、語られることを決めているのではない。語りがその語り手を作るのである。
 前回の記事で書いた、わたしが自分を呼称する時に感じる違和感というのは、語りというものについてまわるこの性質の一角に過ぎない。今回はもう少しこの点を突き詰めてみたいと思う。


 わたしというこの使い慣れない一人称を、ではなぜ採用したのか。それには二つのわけがあった。ひとつには、他のさまざまな呼称に比べて、まだ中立に近く思われたこと。もうひとつには、この代名詞に慣れていないということそのものに理由がある。
 わたしは自分自身の立ち位置を積極的に選びたくなかった。もしもわたしが俺という人称で自分のことを呼んだなら、その俺という人称にまつわるさまざまな立場や態度、語り口、それから属している性集団も含意されてしまうだろう。言うまでもなく、どれだけ避忌したとしても、わたしも――実生活に身を置いて、その生活態度はどうあれ社会の中で暮らしているわたしにしても、あるいはこの日記の上でどうでもいいような自分のことばかりを書き綴っているわたしにしても、どのわたしにしても当然どこかの立場や階層、集団の中に属していることに変わりはない。それでも、わたしは語るときの立場として、自分がどこかに属していること、自分が何者かであることを認めたくはなかったのだ。
 だからわたしは、わたしであることを選択した。わたしというこの代名詞が他のものに比較して少しは中立的に見えたのだ。少なくとも性差を暗示するという面においては、おれ、ぼくなどに比べていくぶんかは中性的であるだろう。もちろん、まったく中性であるというわけではないが。わたしは男性であるということにも身をあずけていたくはない。わたしという呼称を使ったところでそこから逃れられないにしても、自分が男性であるという立場で語っているということを積極的に、明示的に選んでいたくはなかった、少なくともそのことを保留していたかった――それが幼児性の現れであったとしても。
 素性を隠したい、この例で言えば自分が男性であることを隠しておきたい(いわゆるネカマのように)というのとは違う。男性であることを隠そうとしたわけではない。確かに採用した一人称は比較して中性めいたものではあるが、そもそも書いてきた内容は男性的なものが多かったと思う。もちろん、これはわたしの考える男性性であって、恐らく世間に流通している男性のイメージとは多少以上のずれがあっただろう。それでも普通に文章を読める人なら書いているのは男性であることくらいすぐに分かるようなものであったと思う。自己評価として省みるに、わたしは同世代の平均的な男性たちより幾分かは批判される意味での男性的、つまり男性中心主義的、男尊女卑的指向の強い、いわゆる(肉体の意味ではなくて)マッチョな部類に属すると思う。実際のところどの程度のものなのかも分からないが、恐らくそうではないかと思う。わたしの持っている男性像は(もし持っているとするならばだが)こうした思想に寄りかかり、ある時はマチズモの権威に沿って、別のところでは、あくまでその手の平の上でのことだが、それに反抗するような形で作り上げられたものだろう。わたしという人称を選んだところで、この性向が文章の端々に表れているのを鋭い読み手は見逃すまい。こうしてわたしというこの語り手は、どれだけ避けようとしたところで、このような語りによって男権主義的な語り手として塑造されていったのだろう。
 いずれにせよ、より性差の強く暗示するオレやぼくといった人称によって、自分が男性社会の一員であることを明示的に受け入れてしまいたくはなかったことは確かである。性差に限った話ではなく、どのような立場にしてもそれを自分から受け入れることは拒否したかった。もちろん、どんな種類の言葉であってもそれを語るものに何かの位置を強いる。それがどんな語りであっても逃れられないことに変わりはない。だが、一人称、つまり自分自身を呼ぶ言葉に、自分が何者であるのかを色濃く示唆する語を使うことはわたしにはためらわれたというだけだ。だからわたしは、他に比べてまだ中立に近くも思えたわたしというこの代名詞を採用した。これが第一の、そして本質的ではない方の理由である。


 しかし日本語の人称は語り手の立場を規定しようとする度合いが強い。先に例示したように、俺という一人称を使ったならばその話者が男性であることがほぼ含意されてしまう。代名詞に限った話ではないが、こうした性差による言葉の違い、つまり、どれか(いずれか、ではなく)の性にしか使われない言葉をジェンダーレクトという。性(ジェンダー)の方言(ダイアレクト)として造語された用語であるが、日本語の人称代名詞の過半数はこのジェンダーレクトと言えるのではないか*1。ほとんどの性で使われうる一部の呼称を除けば(私など)、どれかの人称を選ぶことは語り手がどの性別に帰属していると自認して語っているのかを有無を言わせず規定してしまう。これは性差だけのことではない。
 一人称の代名詞の豊富さ、言い換えれば語り手の立ち位置を示すような一人称が数多く用意されていること、は日本語の特徴であるらしい。本で読んだだけの話なので真偽は知らないし、また何と(どの言語と)比較して豊富と言えるのかも分からないが、ともかくこの豊富さが示すのは、それだけ話者の位置を相対的に動かして語る言語だということだろう。話しかける相手や話題、発表する場との関係から、自分の位置を相対的に導き出して一人称(そして、語り口なども)が決定される。英語と比べると分かりやすい。英語には一人称の代名詞は、ほぼI(わたし)かwe(わたしたち)しか無いと言ってよい。英語を喋る社会においては、話者の位置は常に一箇所に固定されており、語る対象や語りかける相手の位置を、固定された話者の位置から動かして考えるのだという。このあたりの話は大津栄一郎英語の感覚〈上〉 (岩波新書)』などで紹介されている。日本語は常に相対的に自分の立場を規定しながら喋る言語だと言えるだろう。
 しかし英語にしてみたところで語ることによって自分の立場が決定されることに変わりはない。述べたように、日本語においては相対的に自分の位置をずらすのに対し、英語においては絶対的に相手の位置をずらしていることに過ぎない。なるほど、確かにただI(わたし)とあるだけでは、少なくとも日本語の一人称、ぼくやあたし、などと比較して、その語り手がどんな人物であるかを想像させる程度は低いだろう。だが何かを語るということそのものが、語り手を何かの立場に縛りつけることには変わりはない。何を見て、何をして、何を思った。どこへ出かけたか、今日の天気は何か。そしてそれらを、どのように、語るか。語りそのものが、その語り手を、その語り手の立場、立ち位置を、否応なく決定づける。結局日本語と英語との違いは、それが語りによって縛られてしまうということを、一人称によって明示的に突きつけられるかどうかの違いでしかない。


 語ることは、どうしても何かの立場を語り手に引き受けさせる。これは、中立的な語りや語り手などありえないと言いたいのではない。そのことは結果に過ぎないだろう。わたしが力点を置いておきたいのは、語り手、そして語り手の立ち位置や立場、視点、そうしたもののすべてが語り、語ることそのものによって作られる――作られてしまうということである。それを意識しなくとも、あるいは目を逸らしていたとしても、語りによって語るわたしは作られる。だからこそ、わたしはこの違和感のあるわたしという代名詞を選択した。これがもうひとつの理由だろう。さも自然に、当たり前のように語るふりをすることで隠蔽していた自分自身が作り物であるということを、語りの中で自分自身を呼ぶときに常に思い出すように、贋作でしかない自分の姿を忘れてしまわないようにするために。そしてそれでも、語り続けようとするために。社会の中で日常を送るこのわたしにしても、同じように贋作でしかないのだから。
 語ることそのものによって、自分が作られている、鋳造され、捏造され、時にはおぞましい戯画的な姿に作り変えられるということを、わたしは自分に課すためにこのわたしという代名詞を選んだ――常に選び続けているのだろう。もはや、それは有効な力を残していないかもしれないが、自分が語り続けている目的を覚えておくために、この異質感だけは忘れないでおきたい。

*1:もっとも彼、彼女の使い分けは明治以後、西洋語の三人称単数代名詞の使い分けに対応して輸入されたものであるらしい。