再びの祈り

 みんなが幸せでいて欲しい。どうか、わたしと関わりをもってしまった人たちだけでも、せめて幸せであって欲しい。そのためにわたしは一生不幸であってもいい、だからどうか、わたしを知ったことのある人たちだけでも、幸せであってくれたらいいと思う。それらの人が幸せであってくれたなら、たとえ不幸の泥にまみれて一生一人で過ごすとしても、わたしはそれで救われるのではないかと思う。だからどうか幸せであっておくれ。
 このような祈り方しか知らず、それをやめることもできない自分をわたしは心底呪う。このように他人の幸せを祈ることで、自分は安価に気持ちよくなれるのだ。この身勝手なやさしさには依存性がある。他人の不幸をほんとうに哀れんだり、人の幸福をほんとうに願ったりしているわけではない。力も意志もない個人が、本当に望みたいのは自分の幸福であるはずなのに、それを自分の幸福としてしまうとそれに対して自分で責任を取らねばならないために、他人に預けてそれを祈っているだけなのだ。とりたてて大したこともなく、ただ浪費として人生を送ってきた両親が、幼い頃からその子どもに言い続けてきた幸せだ。その子も長じて同じやり方でしか自分の幸せを祈れないような大人になった。責任を取らなくてもよいものにしか祈れず、その傲慢な身勝手さをやさしさと勘違いしている人間のなんと多いことか。そんな形でしか自分のために祈れない人々をわたしは呪う。
 それしかわたしにできるやさしさがないのなら、わたしは自分のやさしさを捨てよう。そう思ったのはかなり昔のことだ。わたしの身勝手のために、わたし自身の弱さのために、他人にその責任を押し付けるのは、とても失礼で無作法なことではないか。だがそれでも、もしも、そうではなくて、ほんとうに人にやさしくあれるならばわたしはそうありたいと、まだ思いもする。