書き割りを描く、積み木を積む

 こうしていることに現実感がない、そんな感じを随分以前から感じている。どこかに台本が書かれてあり、見えないところで誰かがキューを出しているような安っぽい書き割りの舞台のような感覚である。程度に差はいろいろあったが、もう五年は昔からそんな感じがする。見えているものに連続した匂いが感じられず、触ったものには色がないようなところがある。今の瞬間と、その前の一瞬、そして今の次に来るべき時間、そのそれぞれが全部繋がっていないような気がする。映画のフィルムをじかに見ているようだ。あるいは四コママンガのようだ。
 一方でやたらと現実感のある夢をよく見る。ただ、自分でちゃんとわかっていないので正確に言葉にできるかはわからないのだが、この夢の現実感というのは、起きている時に本来あるべき現実感とは違ったものだろう。そうであることしかできないような生々しさがある。まとわりつくような、逃れられないような、ぎりぎりそうであることしかできないような。やはり言葉が見つからない。芝居を見ているような感覚は夢にもある。同じようなものなのになぜ一方で現実感がないものと感じられて他方で現実感として感じられるのはわたしにはわからない。そうとしか言いようがないところがある。
 起きている時の現実感のなさについて、それを感じはじめた頃から長らく異常なことだと思ってきたが、しかし、そうではないのではないだろうか。あたりまえに普通にあるものとして日常を捉えていたが、わたしがひどい勘違いをしていただけではないだろうか。
 日常とは何も考えずともあたりまえにあるものなのではなくて、一人一人が自分のために、毎日毎日積み木を積むように組み立てているものなのではないだろうか。そうした日常がさも自然にあたりまえに思えたのは、それをわたしのために組み立ててくれた人がいたからで、要するにわたしが幼稚だっただけなのではないだろうか。
 これが正しいかどうかはわからない。だが、このように考えると、日々の現実感のなさにひとつ納得がいった。日常生活が本当にわたしの前にあるものとして、あたりまえに用意されていることを期待するのは、子どもじみた甘えだったということに過ぎない。わたしは自分で自分の日常を、現実にあるものとして組み立てようとしたこともない。だとすれば現実感がなくなっていくのもあたりまえである。それだけのことだ。
 だが、では、どうすればいい? わたしは積み木の積み方も知らない。