昨晩イヤな夢をみたので寝ないことにした。経験上一度そんな夢をみたら数日続くのだ。内容は毎晩違うのだが。
 そんなわけで今は午前6時である。夏休み前最後の授業が十時半からあるので喫茶店で時間を潰すとしても後3時間ほどはなにかをしていなくてはならない。
 何を食べたかはさだかでない。何も食べなかったんじゃないかとさえ思う。会計を済ませてフレンチ・レストランを出るときに、料理がおいしかったので店の名前を聞いた。
 普段わたしはあまりこういうことをしない。生まれつき頭が悪く人の名前や店の名前、いわゆる固有名詞がまったく覚えられないのだ。それで失礼をしてしまうことも多くなんとかしなければならないのだが、実際のところ余り困ったことと自分では思っていないのでいまだなんともなっていない。大学の読書会などでも参加者の名前が出てこずによくしかられる。もともと名前に興味がないのだろう。ただしこれは人を覚えられないのとは違う。人はよく覚えているのだ。ただわたしの頭の中ではその人は名前で整理されておらず、身長や体格、服装の趣味や声色といったもので記憶されているのだ。
 そういうわけでほとんどと言っていいほど店の名前を自分から聞くことはない。聞いたところですぐに忘れてしまう。メモを取る習慣もない。必要な時には後で調べることにしている。名前を聞くなど例外中の例外と言ってよい。それほどその料理は印象に残ったのだ。
 おいしいというのとは違う。むしろ味に関する印象はなにもなかったと言ってよい。においも見栄えもどちらかといえばあまりぱっとしない。だが、妙な質感があった。
 おそらく子牛だろう、牧草を食べ始める前に落とされた子牛の肉は独特の澄んだ味がする。わたしはあまり好みではないが、牛肉料理のジャンルの一つとして珍重されるものだ。そうした牛肉の表面を固く焦がし、やや全体的に火を強めに通してある。わたしはむしろレア好きなのであまり評価しないが、柔らかいたんぱく質の甘みが味わえる火の通し方だ。それに適したように肉も薄く広く切り、軽く叩いてあるようだ。その粘土色と茶色の中間くらいに固くなった表面に、マデラかポートか、いわゆるフォーティファイドワインの類をベースにしたソースをかけてある。この種の酒には何年も寝かして濃厚な味わいにしたものもあるが、むしろこれに使われているのはいくぶん若すぎるくらいのものである。淡い味わいの肉を殺さないための配慮だろう。ソースには他に、別のパンで形が崩れるまでいため煮にしたシャンピニオンなど香草の類が使われている。これも全体的に香りを抑えているようだ。使ったバターも溶かした上澄みだろう。こうした料理になかばつきものの温野菜は添えられておらず、やや深めの平皿に、黒味がかった濃い紅色の澄んだソースに半ばまで浸って肉が寝ている。皿は一見するとデンマーク風の絵付けの磁器である。むしろさえない色合いと言ってよいような肉とソースの色彩から、磁器のつめたい白さが浮き出るように際立って見える。
 もとより淡い味の肉を楽しむための料理である。鮮烈さを期待するようなものではない。だがそれにしても印象の薄いものであった。その薄さの中に奇妙な重さがあるのである。それは実体はつかめないが確かにそこに確固としたものがあるという風情の存在感で、喩えるならば自分の手のひじから先が見えないほどの濃い霧の中で、両手で支えなければ持てないほどの荷物を預けられたような重さである。それは正体をあらわさないなまなましさである。
 食とは実際なまなましい行為である。そこに議論の余地はない。だが、だからこそ、食が美食であるためには、並び立たないような二重性を強いられつづけることになる。美食として食をするためには、ものを喰うというなまなましい行為のことを実際一度は忘れるほどの恍惚感がなければならない。同時にその恍惚感、つまり美的到達点、がすばらしいものであればあるほど、やがてはその快楽に意識はついていけなくなり、その最高点からなまなましい現実へと一気に突き落とされることになる。その落差たるやすさまじいものである。もっともだからこそ美食には価値があるとも言える。
 この快楽の後の墜落感にも似たものをわたしはその料理に感じたのかもしれない。ひそやかにその姿を霧の向こうに隠し続ける、しかし圧倒的な現実感がそれにはあったのだ。わたしが店の名前を聞くと、店主は「オー・ルヴォワール」と答えた。一聴してフランス語とわかった。フレンチ・レストランなのだから当然である。しかし、どんな意味だったか。確かに知っている言葉であるのだが、その意味が出てこない。海はラ・メール、星はイストワールだし、希望ならエスポワールだ。ほんのわずかにかじっただけのわたしにも、それは知っているはずの言葉であるのだが。
 立ち止まったままずっと考えていた。10分はそうしていたような気もする。店主は店の中に引っ込んでしまったし、他の客はそれぞれの連れと談笑しながら食事を続けている。店員が不思議そうにこちらを見る。支払いも終わったのになぜ出て行かないのだろう。わたしも誰かと来ていればあるいは答えを聞けたのだが。
 そう思ったときに目が醒めた。寝汗が気持ち悪い。わたしが見る悪夢というのはいつもこんなのだ。別にたいしたことが起きるわけではない。奇妙に細かく描写されてるとはいえ、むしろ普通に現実でも起こりうる範囲のことが多い。だが、その現実感がわたしにはどうしようもなく苦しいのだ。あまりのなまなましさに吐き気を覚える。
 ここまで書いておいて気がついたが、ほとんど昨日の夜にみた夢のことである。厳密に言えば一昨日の夜から昨日の朝にかけてみた夢だ。それが少なくともわたしにとってはあまりにもひどい悪夢であったため今日、つまり昨日の夜から今朝までにかけて、は寝なかったことは先に書いた。となればこれは昨日の日記とすべきなのかもしれない。しかし、なにしろ寝ていないためどこまでが同じ一日かという感覚もあやふやである。この日記の日付はどうしたものか。
 ベッドから起きるとすぐお茶を飲んだ。目覚めてしまえば辞書を引くまでもなく答えはすぐにわかった。オー・ルヴォワールは別れの挨拶、つまりさようならである。