書くことについて

 なぜこんなものを書いているのだろうか? こんなものとは、この日記のことである。周辺の、サイトに載せているさまざまな他のことも含む。そのサイトの入り口に断り書きしたように、非常に個人的な範囲での理由はある。やむにやまれなさのようなものだ。あまりにも漠然としていて自分自身よくわかっていないのだが、もうなにかを書かないとやっていけない、そんな切迫感がある。追い詰められている。書くことから逃げられない。好んで書いているのとはたぶん違うだろう。この感覚が何かは実はよくわかっていない。
 ではいったい何を書けばよいのだろうか。どうしても、それこそ自分の命も含めてなにもかも一切合財を捨てても、書かなければならない何かがあるような気がする。書き「たい」ものとは違う。自分の書きたいものがわからない――そういうことではない。それは自分の意志がどうあれ、何としても書かねばならないものなのだ。自分がこの世にあることと代えても、どうあっても書かなければならない。そんなものだ。だがその強迫感は強くとも、何を書けばいいのかわからない。今書いているようなこと、これまで書いてきたようなことでいいのだろうか。違っている気はするが、それでよいような気もする。どちらにせよ個人的なものだ。
 これを見る人は自分以外にいるのだろうか? そしてそもそも、人に見られることは必要なのだろうか? あるいは見られたいと思っているのだろうか? 本当のところはわからないが、少なくとも見られたいという気持ちはどこかにあるのではないだろうか。そうでなければネット上に書く必要はないのだし、何より、書いている時にどこかそれを見るかもしれない人のことを想定している気がする。
 もっとも、書かねばならない何かにとって、見られることが必要なのかどうかはわからない。それをちゃんと書くことができたらそれで終わるのかもしれない。その後でそれが誰かの目に触れようがそのまま消えようがかまわないのかもしれない。あるいは、人に見られる(あるいは読まれる、聴かれる)ことで初めて完成するような何かなのかもしれない。それはまったくわからない。
 昔、ベンヤミンという人は芸術作品というものが作られたら、それを見る人が誰一人おらずそのまま朽ちて消えてしまってもそれは芸術なのだというようなことを言った。それを初めて読んだ時には、それは違うと思ったのだが、どうなのだろうか。芸術とか作品などといった言葉はそれ自体よくわからないので、簡単に考えてみる。誰もいないところで誰かが何かを言った。それは誰にも聞かれることなくそのままただの音として空気にとけて消えた。それは言葉といえるのだろうか? 今わたしが何かひとり言を言っても聞く人はいまい。だが、それも言葉であるような気がする。気のせいかもしれない。
 言葉を口から出すということには、どうやら二つの側面があるらしい。一つは、その言葉で何かを伝えるということである。これにはおそらくその言葉を聞く相手がいなくてはなるまい。もう一つはその言葉を出すこと自体が、なにかしらの行為としての意味を持つという面である。これは聞く相手を必要とするのだろうか? よくこの場合の例として出される「ここにこの二人の結婚を宣言する」という結婚式の時の牧師なんかの言葉は、言葉の内容に重点があるのではなくて、その宣言がなされることでおおやけにその結婚を認められるという一種の儀式である。しかしこの例はそれを聞く聴衆がいなければ成立しないような気がするのだが。
 だが、口から出た全ての言葉がどちらかの側面に分かれるというのではなくて、どの言葉も多かれ少なかれ両方の側面を持つとするのならば、誰かに聴かれることを必要としないような行為としての発話もありうるのではないだろうか。そしておそらく、それはわたしが感じているように、その発話する者にとっての非常に個人的なことばとなるのだろう。
 わたしは書かねばならない。それが何かまったくわからなくとも、とにかく書かねばならない。誰かに対して叫びたくなることもある。だが、それを抑えて書かねばならない。