足をゆっくり上げて

 用もないのに出かけることは大変辛い。外に出たくないわけではない。むしろ、どこかに外出して誰かに会いたいという方が本心だろう。誰かが知っている人でなくてもいい。単に街を歩く人々を眺めるだけでもこの際いい。だがそれでも、あるいは「それだけに」なのかもしれない、外に出るのがとても辛い。
 なぜ辛いか、はこれまで何度か書いただろうし、これからも書くことがあるだろう。今回はこれ以上書かない。それを語る気分じゃないのだ。
 だから必然的な用事がない限り出かけない。必然的な用事とは学校の授業であったり自主ゼミであったり、その他イベントであったりだ。こうしたことが多いほど、苦しみながらも喜んでわたしは出かけていくことになる。だから酒の誘いなどは、他の誘いとかぶらない限り、何があろうと断らないことにしている。かつてはここにバイトであるとか他の必然があったのだが、今はもうない。
 せめて誰かを誘って飲みに行くなり食べに行くなり遊びに行くなりすればよいと思うのだが、それもなかなかできない。まれに意を決して、かろうじてわたしとも酒を飲んでくれそうな人を誘って四条あたりに行く。それがせいぜいだ。せいぜいなのだが、誘われる方も迷惑だろうと思うとなかなかこれもできない。
 こうしたことに限らず、社会生活のリハビリをしなければならないと思う。普通に、常識人として、暮らせるようになりたいと思う。生きていることに、生きようとする意志を必要とするような状態はもう嫌なのだ。大きな怪我を負い一月なり病院のベッドに縛り付けられていた人が、ようやく回復してそこから床に立った時、歩き方、それどころか立ち方を忘れていると言う。普段われわれは幼児期からの訓練の成果として、どこかに行こうと思えば、足の上げ方下げ方など深く考えることもなく歩くことができる。何も考えずに歩こうと思えば歩ける。それは訓練の成果であり決して自然なことではないかもしれないのだが、それでも社会に必要なのだ。普通、意思的に歩こうとしなくても人は歩けるし足も出る。それと同じように生きようとしなくても生活することができる。わたしは足を怪我した人のように、意図して生きようとしなければ生活できない。呼吸がやむわけでも心臓が止まるわけでもないのだが、生きようという意志を持ち続けていないと生きていられない。生きていようとする意志を、常に維持し続けていなければならないことは、本当に疲れる。沈んでいる時には、そのあまりの疲労に打ちのめされて、もう生きていなくてもいいとさえ思う。
 ベッドから下りた怪我人がするように、わたしもいろいろなことをリハビリしなければいけない。足をゆっくりと上げて、10cm前に出し、バランスに気をつけながらゆっくりと降ろす。何かにつかまりながら、それを繰り返して前に進む。そのうち意識しなくても、歩けるようになるだろう。