19日の昼から夜にかけて

 起きた時すでに調子はかなり悪かった。たいていここまで悪いと、その日は外に出ない。もちろん自分の意志の保てる限りの話で、一人でいることの辛さに負けてどこかに行くことや、何かの用事で出ざるを得ないこともある。この日もそうだった。所属している研究室の前期の打ち上げのようなものがあり、そのために昼過ぎあたりから河原町へ出た。もっとも断れない用事であったわけではない。ではないのに出かけてしまったのは、やはり人恋しかったからだろうか。少なくとも、その程度の意志が保てないほどまで自分が弱っているのは確かだった。
 クーラーに弱いので羽織るものを持っていった。これはあだになった。強い日差しを受けると火傷してしまう体質なので、夏でもたいてい長袖を着ているが、それもあって大変に暑苦しいことになった。この日から数日、京都は信じられないくらい暑い日が続いた。おかげでだらだらと汗をかいた。一人で昼食を取った。何を食べたかは覚えていないが、何か食べたのは確かだ。ほとんど食べられずに残した覚えがある。本屋と喫茶店を転々とさまよい時間を潰す。
 四時過ぎた頃、待ち合わせの場所に行く。誰も来ていないのも当然で、待ち合わせの時刻まではまだ30分以上もある。阪急デパート入り口隅の、灰皿のある、目立たない日陰に陣取ってしばらく待つ。半過ぎまでそうしていたが、あまりに暑くまた髪をしたたるほどの汗をかいたので、身なりを整えにデパートに入る。阪急は男性用の化粧室が五階にしかない。仕方なくエスカレーターを上る。おそらくここでハンカチを忘れる。建物を出て同じ場所に戻り、時刻を見ようと携帯を出す。着信があったのでかけ直すと、既に待ち合わせ場所を出て目的の店にいるとのこと。どうも間が悪い。
 打ち上げ前にその数人で集まり、氷を食べながらお遊びのような読書会をする。かき氷など食べるのはいつ以来のことか。おそらく生まれて初めて宇治金時を食べる。白玉が乗っている。ごてごてしたのが嫌で、普段はたいてい砂糖水をかけたようなものしか食べない。あるいは何もかけないかだ。ひどく暑い。氷屋なので当然冷房は入っていない。氷はなかなか食べられる味だがあまり涼しさを感じない。白玉もお茶も悪くない。だが、どれだけ味わおうとしてもお茶の素性がわからない。身体が麻痺したようになっている。麻痺させているのはおそらく自分自身だ。ここに来てからほとんど何もしゃべっていない。話すことができない。女性方は一人を除いて見事な浴衣を着ていた。何か言うべきなのだろうが言葉がない。向かいの一人は浴衣にコサージュをつけていた。それもなかなかかわいらしいのだが、一人防音壁の向こうに隔離されたように何を語ることもできない。目の前にいる人々がひどく遠くにいるように感じる。自分自身の肉体すらも遠くあったのかもしれない。遠く離れたところで会が進行していく。時々断片的な音がこちらまで伝わってくる。遠くにいる彼らをひどくうらやましく感じる。彼方から流れ着いた光のかけらのようだ。こちらから叫んでも届かないだろう。一人がかき氷の汁をこぼし、一瞬だが彼らとの距離がなくなる。それからまたさらに遠くへ追いやられる。
 三条まで先斗町を歩き、残りのメンバーと合流する。意図して離れて後ろを歩く。浴衣はうしろ姿を眺めるのがよい。華やかな輪だ。だがそこに近づく資格すらわたしにはない。また一層離れる。
 料理屋に入る。随分集まったものだ、15、6名はいただろうか。長いテーブルの隅、高さの違う二人用の小テーブルをつけたところに自分を隔離する。そうしておけばどうせわたしなどに誰も近づいては来まい。実際、長テーブルが埋まりきるまではわたしのいるところとの間にぽっかりと空席が空く。わたしの向かいに座らされ、わたしとともに隔離されることになる人にはかわいそうなことであるのだが。どこかに行っていいんだよ、わたしなど置いて、人々のいる世界にお戻りなさい。そう思いもするし、確かにそんなようなことを言った。言われた方も困るだろう。
 料理は好きなタイプのものだったが、なにぶんそんな調子なのでまるで味がわからない。食欲もない。途中で食べるのをあきらめて酒を飲み始めた。ラキは中東から地中海沿岸にかけて広く飲まれている酒で、ギリシャのウゾー、フランスのペルノーアブサンなどと同じ仲間だ。わたしは普段この中のペルノーを好んで飲む。たいていの人にとっては飲めたものではないような味と臭いがするだろう。いつものようにストレートで、安食堂で水を出すようなコップに半分ほど飲んだがまるで酔うことができない。それもいつものことだ。いっそビールやワイン、日本酒程度の酒類の方がまだ酔える。いや、この場合酔えないというのは正確ではないだろう。飲むほどに、しらふになっていくのだ。活火山の下という、かつて読んだことのある小説に、そんな描写があった。飲めば飲むほどsoberになる。わたしにとっては非常によくわかる現象なのだが、経験したことのない人にはきっとまったくわからないだろう。いわゆるほろ酔いなどに特有の、開放感であるとか昂揚感であるとか、気分の浮き立ちとか、そういうものとはちょうど正反対の方向へ静かに心が落ちていく。とは言え、なんとか上戸の典型としてあるような、怒りっぽくなったり愚痴っぽくなったり、あるいは泣き出してみたりするとはまた違う。その方が、むしろわたしにとっては幸せだ。だが、そうはなれない。飲むほどに冷静に、静かになっていく。そこに座って、酒を飲んでいる自分、その周りにあるもの、そばにいる人々、もし話し相手がいたとすれば話していることなど、全てが遠く離れているところで進行していく。わたしはそこに手を出すこともできないのだ。どうしたらいい、どうしようもない。ただ何かに操られた人形のように表情の失せた顔で静かに酒をなめているだけだ。はるかな虚空で魂だけが拷問にかけられているかのようだ。もちろん、酔えないとか、飲むほどにしらふになるというのではなく、単にそういうふうに酔っているということなのかもしれない。そんな酔い方をしやすい酒なのかもしれない。そういえばあの小説でもアニスを飲んでいた。それが辛いならいっそ酒など飲まなければいいのかもしれない。実際、あれほど飲んでいたお酒を、最近ではあまり飲まないようにしている。特に一人では一切飲まないようになった。だが、それでも、何かにすがるように酒を飲む。いっそ質の悪い酔っ払いのようにべろんべろんになるまで酔わせてくれ。