19日の深夜から日付が変わった後しばらくまで

 会食が終わり、二次会ということで人の少ない静かな店へ行く。数人を除きほとんどがこちらにも来る。ここではスプモーニを飲む。軽いお酒も置いているような喫茶店などで、よくジュース代わりに頼むような甘いカクテルだ。グレープフルーツか桃のジュースが入っているので、たいてい甘い。甘すぎることも多い。ここのは過剰に甘かった。カンパリの色について説明しようとしたのだが、ろくな言葉が出てこない。あの赤い黒色をどう言えばいいのだろう。どす黒いのとは違う、赤黒いのとも違う。紺色も少し差しているのだ。晩夏の夜、夕焼けの後、日が落ちきってしばらく経ち、まだ空が真暗くなりきる直前くらいの空の色。そんなような説明でごまかしたはずだ。
 ここまで歩いてよけいにアルコールが回りでもしたのだろうか、自分との距離がさらに遠くなる。溺れているような感覚だ。足に鉛をつけられて、水は暗く、はるか遠くにかろうじて水面が見える。手を伸ばす。届かない。何もかもがはるか遠くの水面にあり、誰にも気がつかれることなく一人で沈んでいく。ぶくぶく、水泡すら立たないかろうじて自分の何かに触れるだけのかすかな音を立てる。ぶくぶく、ぶくぶく。
 どうしようもないわたしの、かろうじての矜持のよりどころであった仮面にひびが入り、砕け散る。だが、何と言うことだろうか。つけるものの消えうせた、壊れた仮面だけがそのまま虚空に浮かび、わたしであるふりをし続けているのだ。破片となって地面に落ちることもせず、壊れた仮面が、ひびの入った醜い顔をみなに向け、焼け焦げた声帯を引っかいてゆがんだ声を出す。何もない体からは死臭も匂うだろう。
 その醜悪なわたし自身のパロディーに向かって、水の底から叫ぼうとする。やめてくれ、ぶくぶく、それはわたしじゃないんだ、ぶくぶく、ぶくぶく。仮面の空洞の目が、パロディーという言葉を侮蔑するように、ちらりとこちらを見やる。その他にわたしの叫びに気づいたものは一人もいない。全てがわたしと関係のないところで進行していく。
 二次会の後解散と言うことになりタクシーに相乗りして帰途につく。アパートの狭い階段をよろよろと登る。エレベーターがあればよいと思う。部屋に入ると、古い蛍光灯がその寿命を終えようとしてパチパチと最後の自己主張をはじめる。質感のある重たい暗闇がわたしを見つめている。一人であることの恐ろしさにほとんど打ちのめされそうになる。息が荒い。酒を飲んで、階段を五階まで上がったせいだろう。服装を解きベッドに上半身を預け早く眠りが訪れてくれるように祈る。死にかけた蛍光灯がそんな期待をバチバチとあざ笑う。激しく喉が渇く。あいにく飲み物を切らしている。何か買いに行こうにも服を脱いでしまっている。眠れそうな気配もない。わたしはそのわたし自身と対決せねばならない。
 敵は一個一個わたしの拠点を潰していく。こんな調子であったために、おそらく多くの人を不愉快にさせまた迷惑をかけてしまったであろうこと。気難しい人、頭のおかしい人、気持ちの悪い人として見られているであろうこと。そしてまた、そうして人にどう見られているかばかりを気にしていること。能力のなさ、そしてそれに輪をかける責任感のなさ。過去に自分の身の上に起きたさまざまな不幸な出来事。これから自分の身に降りかかるであろうあらゆる不幸なできごと。運の悪さ。それを運の悪さとして片づけてしまう自分の弱さと、それを運の悪さとしても片づけることのできない自分の弱さ。そうしたもろもろの欠点のためにわたしから去っていった人々のこと。そしてこれから去っていくであろう人々のこと。どこまで行っても一人で立っていることしかできない、そのことは十分わかっているはずなのに人に助けを求めそうになる弱さ。そして素直に助けてくれと言うこともできない弱さ。それなのにそうした迂回的な形で人に頼ろうとする自分の卑怯さ。
 もうお前は存在する価値もないのだし、それにお前もいっそその方が楽だろう。裁判長が判決を下す。いや、待ってくれ、頼むからもう少し待ってくれ。必死に抵抗するわたしもいる。まだ、何かやらなければいけないことがあるんだ、それが何か、自分でもまったくわかっていないのだけど、とにかく今はまだ死ぬわけにはいかないんだ。それを聴いて軍法会議のメンバーがいっせいに嘲笑する。まだお前はそんなことを言っているのか、もうお前には何もない、あとはただ煩悶しながら朽ちてゆき、やがて死ぬだけだ。裁判長が言い、列席者を見回す。生きている時間が長い分、その苦しみも長くなるぞ。そうだ、さっさと死んでしまえ。嵐のようにヤジや怒号がこだまする。
 部屋を出て、向かいのベランダの手すりを乗り越えることを考える。下はアスファルトだ。きっとこの暑さで柔らかくなっているだろう。だが五階もあれば十分だ。上手く頭から落ちられるだろうか。頭は割れてどんな形になるのだろうか。かつて高校をサボって見に行った墜落死体は、その頭の周りに血の水溜りができている他はきれいなものだった。あんなふうになるのだろうか。よろよろと着る服を手探りする。手が痺れているのでなかなかうまくつかめない。何か硬いものが手に当たる。一年以上も前に人に借りたライターだ。火を忘れてライターを借り、そのまま返し忘れて別れたのだ。返さなくていい、遠くの町に住んでいるその男は言ったのだが、どうしても返さねばならないような気がして、次に会う時に持っていこうと使わずに取っておいたのだ。イルカの絵柄の入った緑色のライターで、海遊館で買ったものだと言っていた。100円ライターに毛が生えた程度のみやげ物だ。暗い部屋の中で火を点けるとぼんやりとその輪郭が浮かぶ。これを返すことももうできないのだな。そう思うと涙が出た。
 ずっと火を点けたまま、液化燃料の海を泳ぐイルカに見入っていたせいだろう、我に変えると親指の腹を火傷していた。水を流して親指を冷やす。夜の京都の酷暑の中でアパートの屋上のタンクの中に蓄えられた水は、生暖かいゼリーのような感触がしてむしろ火傷の痛みを強くした。そのぬるい水で顔をごしごしと洗う。目に水が入り、それを追い出そうとしてこすると余計に目が痛んだ。それでもやけになったように、ごしごしと、何度も何度も顔を洗った。まだ生きてなくてはいけない、まだ死ぬわけにはいかないんだ。身体に傷跡を彫り込むように言い聞かせた。まだ、死ぬわけにはいかない。洗面台に水を溜めて顔をゆっくりとそこに沈める。ああ、誰か助けてくれ。ほんとうに、誰かたすけてくれ。ああ。どうか。日ごろ自分に禁じて絶対に吐かない言葉を、歯の上でころがすように小さく何度もつぶやいた。汚れた水が鼻と喉に入り何度も咳き込みそうになった。目をあけると激しく痛んだ。ああ、誰か。
 肌の上に両生類の粘液質の皮膚ができたように、粘りつくような汗を体中にかいていた。生ぬるいシャワーを浴び体を洗う。自分の醜さから噴きだした汚泥のようなものは、そのアパートの生暖かい水ではなかなか落ちてくれる気がしない。削り取るように、獰猛に、それをこそぎ落とそうとする。嫌な臭気のするどぶに落ちた人のように、必死になって何かを落とそうとする。それから身体を拭いて、新しい服を着ると、そのライターを持ってベランダに出た。夜の竜巻のように重たく暑い濃紺の空が、四条あたりの明るい街を押しつぶそうとしていた。一度は落ちようとした手すりの向こうは、わたしの弱りきった視力ではかすんだ闇の塊のようにしか見えなかった。煙草を一本つけると、ゆっくりとそれを吸い込んだ。吸い終えてからもしばらくの間、そうしてベランダに面した、細い通りをじっと眺めていた。遠くの街明かりが邪魔をして、かえって近くのものはぼんやりとしか見ることができない。建物の足元の、その通りのアスファルトは、周囲の捨てられた自転車や向かいの店の看板、ゴミバケツなどを飲み込んで、小さな闇色の海のようになっていた。指の先ほんの3センチほどのところにあるはずの、わたしを示すささやかな信号灯は、この海の中でぼんやりとにじんで、じわりと明滅を繰り返しながら、それでも闇を侵食しようとしていた。
 静かな夜だった。たまに駆け抜けるエンジンの音を除けば、ほとんど大きな音はなかった。自動車の少ない夜だったのかもしれない。みな海に飲まれたのだろうか。その静寂の中で、低くかすかな、街の呼吸の音が聞こえた。ブーンとうなるような音。貯水タンクが水道管から吸い上げているのだろうか。キイキイとした、何かのこすれるような音。遠くの家のクーラーだろうか。あるいは自転車が通ったのかもしれない。途切れ途切れの、何かの音楽のような、かすれた音。長く伸びて、それっきり消えた正体のわからない動物の声。ゆるやかに流れる水のような音。その上を流した丸太が、ぶつかりあって立てるような、低くリズミカルな打撃音。わたしの声もどこかに届くことがあるだろうか。
 ライターを出してもう一本煙草をつける。その本来の持ち主ともいつのまにか疎遠になり、連絡しあうこともなくなった。一緒につるんだ連中ももう消息すらきくこともない。人がわたしから離れていくのか、それともわたしが人を遠ざけるのか。深く煙を吸い込むと、ちりちりと煙草の先が燃える。わたしは、ここにいます。
 扉を開けて部屋に戻る前に、もう一度アパートの下を見る。それから、なるべく力を入れないように、ゆったりとしたモーションで腕をふり、手すりの向こうへとライターを投げた。指先を離れると、すぐにそれは見えなくなった。暗闇の中から、何かに当たってカラカラと意外に大きな音を立てながら、代わりにそれは落ちていった。まだ喉が渇いていた。朝になればどこかの喫茶店も開くだろう。