物語る

 物語を語ろうと思う。わたしは語らなければならない。
 語り始める時がきた。ひと月ほど前から、そんなことを思うようになった。長い間見ないようにしてきたもの、初めからそんなこと無かったのだと言い聞かせてきたこと、そしていつしか自分からは向き合うこともできなくなっていたもの。そうした全てに決着をつけに行こうと思う。今が、きっとその時なのだ。
 わたしはきっとこの世界に順応できなかったのだろう。それはある種の先天性の畸形、明示的でない不具で、みんなが引っかかり、つまずいても、何も無かったように(軽くほこりを払って)歩き続けるようなところで、いつも立ち止まってしまった。わたしは生きていることに向いていないのだろう。人と会いどうでもいい日常の些事を話す、一人で街に出て何軒かの店舗を回り必要なものと必要でないものとを買い揃える、あるいは部屋に籠もり本を読む――そのうちに読むものも無くなり掃除や洗濯をする、気がつくと雑巾を左手に押し付けたまま、何もせず、何もできず、ただ窓の方の空白を眺めている、そんなありがちな暮らし自体が、わたしには水面で溺れて、もがいて、沈んで手足をばたつかせ、そしてなんとか浮かび上がり一呼吸分の酸素を吸う、その繰り返しに似ていた。こうして、ただ自分がここにいること自体が苦痛だった――今も、苦痛である。苦痛への怒りと憎しみがなおわたしを苦しめた。適応障害と言ってもよい。一方で怒りの矛先を、わたしを苦しめている犯人を、それを転嫁できる相手を探し、また他方で誰でも苦しいのだ、生きていることは誰にとっても程度の差こそあれ苦痛なのだ、と自分に言い聞かせようとした。どちらもうまくはいかなかった。つまずいた石を拾ってはハンカチにくるんでカバンに入れる。向き合えないのなら、ただ通り過ぎればいい。みんなそうしている、少なくとも表向きは。だがわたしは立ち止まらずにはおられない、拾わずにはいられないのだ。向き合うこともできもしないのに、集めたガラス玉が貴重すぎて捨てられなくなった幼子のように、わたしはそれを抱え込んでしまった。どんなに辛い傷であっても家族よりも大切なものだった。わたしにとっては、家族もまた他人だった。わたしはどこの誰でもない。そんなわたしにとって、そうした数々の石コロだけが、この世とのつながりを保障してくれるのだ。捨てられるはずもなかった。そうしてわたしは正視することもできない多くの苦さと痛みをカバンに詰めて、ぶくぶくと沈んでいった。
 わたしは物語を語ろうと思う。語られなければならないものを抱え込んでしまっているのだから。わたしはそれを形のある言葉にしなければならない。もう他のどんな声にもならないだろうから。それは物語なんて大層な、あるは確固とした姿のあるようなものではなくて、例えばお話とか、おとぎ話、あるいはそれ以前のただのスケッチ、文の連なりと呼ぶのがふさわしいようなものになるかもしれない。誰一人にも届かないだろう、わたし以外の誰の目にも触れることもないだろう。それでもわたしは吐き出さねばならない。