語り手

 語る、というただそれだけのことにしても、つながりの無い、ほつれ、からまった断片としてしか語れずにいる。だが、それでもわたしは語らなければならない。
 昨年の秋口に、『白鯨』を翻訳された千石英世先生と縁あってお話する機会を持てた。九月ごろの日記に書いたが*1、読んでいた訳書から想像していた人物像とはかけ離れた、恐らく正反対の、方であった。しかし実際に会ってみると、なるほどこういう方だからこそ、Moby-Dickをあのように翻訳されたのだな、と妙に納得できた。
 先生は集中講義にいらしていたのだが、確かその初日だったと思う、わたしを含めた生徒たちに『白鯨』の二人の中心人物、エイハブとイシュメールではどちらが好きか、と訊ねて回った。エイハブは物語の主要な舞台となる捕鯨船ピークォド号の船長である。神話的英雄の勇ましさ、悲劇、そして滑稽さまでも全て引き受けて、彼は異常な熱心さで自分の片足を奪った白鯨モビー・ディックを追う。もはや片足の復讐心という程度のものを越えて、彼自身の前に立ち塞がる世界を乗り越えようとする如くに、エイハブは破滅へ突き進んでいく。この『白鯨』という舞台において、まさしく中心人物と呼ぶにふさわしい役柄をエイハブは演ずる。他方でイシュメールは、捕鯨基地ナンタケット島からピークォド号に乗り込んだ一船員に過ぎない。だが、彼もまた、この小説、『白鯨』において、特別な役割を果たすことになる。彼はこの航海からただ一人生き残り、この物語を有名な"Call me Ishmael"(「イシュメール、これをおれの名としておこう」 千石英世訳による)*2という語りだしで、語り始めるのだ。彼はエイハブのように英雄的なキャラクターではない。だが彼だけが(小説内部的には、唯一の生存者として文字通り)この物語を語ることができる、あるいは語らなければならなかったのだ。
 イシュメールの方が好きだ、とわたしは即答したはずだ。それは今も変わっていない。恐らくずっと変わるまいと思う。少数派であったと思う。確か、わたしを除いては一人くらいしかいなかったはずだ。残りはみなエイハブと答えるか、あるいは両方とも好きだ、などと答えていた。先生は一人一人に、その選んだ理由を聞いた。わたしはきちんとは答えられなかった。自分でも言葉にできるほどには分かっていないからだろう、今に至っても十分に説明できはしないだろう。わたしは『白鯨』という作品をまだ十全に理解できてはおるまい。こんなことを述べたはずだ。二人のキャラクターの大きな違いは、演劇的(つまりドラマチック)であるか散文的(小説的)であるかだと思う。わたしは演劇(的)なものより散文(的)なものの方に惹かれるのだろう、だから散文的なイシュメールの方が好きなのだ。『白鯨』を(そして他のメルヴィルの諸作品にしても)演劇的な部分と散文的な部分とのモザイクとして見るのはよくある話で、それでなんとか自分の贔屓を説明しようとしたのだろう。それこそドラマチックに、悲劇的英雄像を背負ってエイハブは白鯨を追うという冒険をする。だが、イシュメールもまた、その破滅的航海から帰りそれを語る、物語として語る、という冒険をしているのではないか。語ること自体もエイハブのそれに劣らない、恐らく破滅的な、冒険ではないのか。
 イシュメールは、どうしても語らずにはおられなかったのではないだろうか。作者メルヴィルはなぜ彼に語らせたのだろう、なぜ彼は語ったのだろう、そんなことを考えるといつも同じ結論に陥る。エイハブも死んだ、クイークェグもスターバックもスタッブも死んだ。タシュテゴはハンマーを握り締めた手を掲げたまま沈んでいった。そのさまを眺めながらただ一人生き残った、生き残ってしまった、イシュメールはどうしても物語を語らざるを得なかったのではないか。そして小説から一歩退いて述べるならば、作者メルヴィルもまた、イシュメールと同じようにどうしても、何をおいても語らないではおられないものを抱え込んでいたのではないか。よく言われるように、エイハブに作者自身の姿が投影されているというのは確かに間違いではないだろう。メルヴィルが立ち向かった苦悩や怒り、世界存在自体へそれをぶつけ、どうにもならないはずのものを貫こうとする破滅的な姿はまさにエイハブのものでもある。だが同時に、もはやこの世と同等であると言ってもよいような白鯨モビー・ディックとのエイハブの死闘は、メルヴィルにおいては、書くこと、語ること、語りえないようなもの、それこそメルヴィル自身の言葉を使うのなら、正常な人間が口に出したなら狂人と間違えられかねないようなことを、正気の狂気で語るという死闘であったのではないか。そんなメルヴィルの、語ること自体の冒険が投影されているのがイシュメールというキャラクターではないだろうか。その姿は、あるいはエイハブを注視する以上に、痛々しく、そして魅力的である。メルヴィルもイシュメールも、何かを語りたい、小説を書きたい、というのですらなく、もはや何をおいても語らないではすまされない、そうしなくては生きていけないような切羽詰ったものを握り締めてしまったのだろう。
 メルヴィルにはそんなことを考えさせる語り手が多い。短編「バートルビー」の語り手もまた、イシュメールと同じように、取り残されてしまった者であるようにわたしには思われる。あの語り手も、バートルビーとの一連の事件の後、その間にどのくらいの年月が経過したかは分からないが――わたしには、やはりそれなりの時間が必要だったのではないかと思えるのだが、口を開き、かつて彼の事務所にやってきた、住み着いた、男のことを語り始める。彼はどうしても語らねばならなかったのだろう。彼の語り口には、後悔、自己弁護、あるいは懐かしさ、それらさまざまな感情に混ざって、何かに取り残されてしまった、何かを残してきてしまった、そんな音色がこだましている。それは唯一人死に損なったイシュメールの感覚と同じものだろう。彼もまた、取り残された語り手である。
 最終日の講義が終わった後、廊下でしばらく千石先生と立ち話をした。イシュメールも死に損なったから、生きていたから物語を語ることができたのだよ、と先生はおっしゃった。他にどんな話をしたかはあまり覚えていない。名刺を頂いたはずだ。その一言だけが、飲み下せないしこりのように、何ヶ月もわたしの中に残っている。わたしはゆっくりと語ろうと思う。

 『白鯨』に関して、特にエイハブとイシュメールについて、ishmaelさんが非常に面白く書いておられます(モウビィ・ディック日和:■[映画]白鯨)。専門的なことを交えつつ、物語の背景となる聖書物語や神話などに触れ、詳しく解説されてます。この記事を書くにあたり大変参考になりました。ありがとうございました。

白鯨 モービィ・ディック 上 (講談社文芸文庫) 白鯨―モービィ・ディック〈上〉
 ハーマン・メルヴィル
 千石英世 訳
 
白鯨 モービィ・ディック 下 (講談社文芸文庫) 白鯨―モービィ・ディック〈下〉
 ハーマン・メルヴィル
 千石英世 訳
 
Moby-Dick: Or the Whale (Melville) Moby-Dick: Or the Whale  (Northwestern-Newberry Editions of the Writings of Herman Melville)
 Herman Melville

*1:9/269/21

*2:直訳に留めるなら、「おれのことはイシュメールと呼んでくれ」くらいか。