書き始めてから、もう半日以上が過ぎた。それでもわたしは言葉を見出せないのか。わたしはなぜこんなものを書こうとしていたのか。けれども、何も前に進んでいない。
 通りに人は少なかった。その一人一人が敵意を持っているようだった。すれ違う自転車、手押し車の老婆、わたしは大きく避けようと、つい通りのはじに寄る。それがまた迷惑に思われていそうで、なかなか前に進めなくなる。急に立ち止まったサラリーマン風がわたしに文句を言いたげに見える。車道にはライトをつけ始めた乗用車が混ざっている。立ち止まろうとすると信号が急に変わって、前に進むことを余儀なくされる。停留所にわだかまる数人、みな不審そうにこちらをうかがっている。わたしは誰からも許されていなかった。敵意か、悪意か、そんなものが道に転がる何かの袋にさえほの見える。早く着きすぎた待ち合わせ場所には、すでに大勢が立っていて、わたしは仕方なく付近の喫茶店に隠れる。無駄にたくさんの照明が店内を真昼に照らしていて、四方からの光線に足元に影も映らない。仕事帰りだろうか、ボックスはどこも埋まっていて、新聞で顔を隠したひとりがこちらに向かってそびえている。仕方なくカウンター席で水を飲む。明るいところに無理やり引きずり出されたようで、おちつかなげに、上目遣いに周囲をうかがう。どこかに知った顔が隠れていて、わたしを観察しているような気配がする。誰かが隠れていることが恐いのに、けれども安心できる誰かに早く会いたくて、携帯の時計を何度も見る。煙草を取り出そうとするが、灰皿がないことに気がついて、ただとがった箱の角を親指の肉に食い込ませた。乱暴に運ばれた受け皿にはこぼれたコーヒーが溜まっていて、その無作法を隣の客が睨んでいる。わたしはそこから抜け出したくてたまらなくなる。だが時間は一向進まない。
 そんなふうに思うのは、なにかの幻なのだ。誰もわたしになど、関心さえ持っていない。皆が悪意を持っているように感じるのは、わたし自身が作り出した、ただの幻想なのだ。何度も自分に言い聞かせる。そうだ、頭ではよく分かっているだろう。そもそも誰も、おまえなんかに興味はない。けれども体に刻まれる恐怖は変わらない。店の全ての目という目が、わたしを窺い、無遠慮にあざ笑って、あるいはおまえがいるのは迷惑だと訴えてくる。さっさとどこかに出て行けと、けれどわたしには行くべき所もない。
 薄味のコーヒーを半分くらい残したままで店を出た。約束にはまだ十分以上が残っていた。待ち合わせのビルの前、群集の中を探してみる。目があってしまうのが恐くて、ひとの顔を見つめられない。わたしの視力では、彼女がいるのかも分からない。だから見つけてもらおうと、なるべく目立つように前に出る。だが信号を渡ろうと急ぐ人並みにぶつかり、彼らがいっせいにこちらを睨む。わたしは隠れてしまいたくなる。とにかく時間をやり過ごそうと阪急の中に入ってしまう。百貨店のエレベーターに意味もなく乗り込んで、上まで行ってまた降りる。乗り降りする人々が、こいつは何をやっているんだと、じろじろわたしを観察する。効きすぎた冷房に追い立てられて建物を出る。
 けれども彼女は現れなかった。信号機が動くたび流れの変わる人ごみの中、似た背格好の姿を捜す。けれど誰もが違っていて、わたしは亡者の必死さで交差点の角を往復する。どこかで彼女もわたしのさまを眺めているのではないだろうか。そんな想像さえ頭に浮かぶ。人々は場違いな異物をみる目でわたしをいぶかしんでいる。あわてて走り去る者もいた。さっさと失せろと言うように、中年がわたしに肩をぶつけた。約束の時間はとうに過ぎていて、わたしはそれでも待ち続けるしかなかった。何度か携帯を見たが連絡は来なかった。そのうちに時間を数えることにも疲れてしまった。
 わたしは四条の隅に立ち続けていた。もう夜になっていた。どこからも新しい知らせは来なかった。野球帽の老人が、わたしの足元に痰を吐いて去っていった。華やかに酔いの入ったグループが、わたしのそばで談笑を始めた。リーダーらしき小太りが、こちらを一瞥して、それからゆっくり足元から頭までわたしを眺めて、せっかくの場を白けさせるなと言いたげに、短く舌打ちをして仲間の方に向き直った。わたしは自分の知覚を閉じてしまいたかった。どうしてそんなことをしているのかも、よく分からなかった。ただ待ち続けていなければいけない、それだけを思って、愚直にその場にいつづけた。それにどこにいても、自分が異物であるのは変わらなかっただろう。どうしたところで、その先で、そのことを思い知らされただけだろう。
 マイクロフォンを叫びながら、警察車両が行き過ぎる。植え込みに座って化粧を直していた女は、そのままの姿勢でメールを始めた。わたしもそれで、再び携帯を取り出しあてもなく電話帳をめくる。登録されてる番号の、半分以上は今はもう通じまい。三年以上、音沙汰もない知り合いばかりがほとんどで、顔もよく覚えていないのも数名いる。誰も彼もいなくなった。わたしが遠ざけたのだろう。どうしているのだろうか、どこかで元気なのだろうか、しあわせにしていてくれたらいい。頼むからしあわせにしていてくれ。そんな弱々しい思いに、自分自身を許せなくなる。このまま建材に覆われて、ビルの一部になってしまえればいい。けれどそこすら、わたしの居場所なのではない。
 な行の終わり、懐かしい名前を見つける。彼は今どうしているのか。最後に会ったのは五年は前で、学会発表の手伝いだと、大荷物を抱えて神戸に来た。それから数年後電話した時には結婚前で、式を控えて慌しいと言っていた。彼は高校の同級生だった。趣味も個性も違ったが、誰とも表面的にしか仲良くなれなかったわたしにも、どうしてだか気取らず話せた友人だった。整った男前で周囲からは女子高キラーと呼ばれていた。背は低くて、それさえなければモデルもできたかもしれないのにと言うものもいた。その男子校ではそんな話題ばかりがあがった。けれど彼は誰ともつきあおうとしなかった。二十歳の正月には男二人でドライブに行った。走り屋という兄譲りの見事な腕前で一般道をかっ飛ばしていた。御前崎で日の出を見ようと言い出したのはどちらだったか。初日の出に間に合わせようと名古屋からの無茶なドライブで、それでも彼は楽しそうにハンドルを取った。音楽もかけず、くだらない話題をいつまでも喋り続けていた。途中で暴走族の一団と出会い、明かりを消して、舗道の路肩にこそこそ隠れた。あぶねー、男二人でよかった。女づれだったら絶対絡まれてるぞ俺ら、と彼はエンジンを切って飲み物を取った。そういうものなのか、と思いながら、物珍しげにパレードを見つめていたわたしに、ばか、あんまじろじろ見んなよ、と注意した。
 時刻はすでに八時前になっていた。それぞれ店に入っていったのか、一時よりも人は少ない。早々できあがった酔漢が、交差点をふらついて行く。これから河岸を変えるのだろう。すぐ隣の若者に、無駄ながなりでしじゅう声をかけながら、男は祇園の方角へ消えた。わたしもあの男には、現れて消える雑踏のひとりにすぎないはずなのだった。
 通じないだろうと思いながら、わたしは彼の番号を回した。呼び出し音もそこそこに、おー、久しぶり、と声が聞こえた。彼はずっと携帯を変えないままでいてくれた。相変らずの彼の声で、それは高校時代から変わっていなかった。今日は有給を取って、一日家にいたのだという。先月子供が生まれたのだと父親になった彼は言った。一日休みもらって世話してて疲れちまってよお、とまるで大人らしくもない、相変らずの喋り方で、彼は近況をわたしに教える。子供は女の子、いや俺は男の子がよかったんだけどな、ばか、うまれてみるとかわいくてさー。先月鎌倉に引っ越したと彼は言った。最後に電話のあった結婚前には、彼はその奥さんと横浜にいた。海が近くでさー、おまえ一度来てみろ、と、鎌倉と言えば大仏ぐらいしか知らぬわたしに力説する。会社まで二時間半かかるけどよー。おれ相変らず地理わかんねえんだよ、あ、今の子供の声、と訊ねるわたしに、彼はそうだよ、とすぐそばに赤ちゃんを置いて答える。すっかりいいパパになっちゃって、とため息混じりにからかうと、ばか、おまえの方がいいパパになりそうだと逆襲を受けた。それから育児で忙しいだろうと、また連絡するよ、とほんとかどうかわからぬことをわたしは言って切ろうとした。おまえはさっさと出世してくれよ、俺もう見込みはないからなあ、と彼は情けないせりふで回線を閉めた。最後にまた子供の声が、小さく聴こえた。
 彼との会話はほんの六分余りのことで、けれどいっぱい話した感じがした。すでに待ち合わせの時間から、二時間近くが過ぎていた。彼女はまだ現れなかった。なぜ彼女が突然に、連絡をしてきたのか、わたしには思い当たらなかった。共通の知人にもほとんど会ってもいなかった。電話口では彼女は何も言わなかった。わたしには想像もつかないなにかが、勝手に働いているような、そんな気持ち悪さがあった。
 どうしていいのか分からないまま、わたしはそこにいつづけた。通りから人がいなくなることはなかった。彼らはそれぞれのやり方で、わたしを遠巻きに観察した。そして無言の圧力で、どこかに消えてしまえと迫った。そんな妄想から、自分が誰かを憎んでしまうのが嫌で、わたしは必死に否定した。そしてわたしを嫌っているのかもしれない誰かを、ひとりひとり心の中で許して回った。もうわたしが生きていることが、どこかに存在してしまうことが、許されなくてもいい。だから誰も憎ませないでください。そんなふうに願うことしかできなかった。それでも助けを求められない自分に怒りがこみ上げた。今日も、昨日も、その前も、ともすれば出そうになる、たすけて、誰かたすけてください、という言葉を、なんとか押し込めざるを得ない自分が情けなかった。強がることも、強がらないこともできないくせに。