何もかもが、ちりぢりになった。身の回りのこと、自分の身に起きたこと、そんなささいな日常の全てがもう分からない。誰かが言ってくれた言葉、昨日の夢、かかってきた電話、どれひとつとしてその全体を思い出せない。なんでそんなせりふが出たのか、どこで彼に会ったのだったか、なぜ。とりとめもない小さな日常、どこにでもよくあるような、そのそれぞれが小さな一枚絵になって、その場面から動かない。なにもつながろうとしない。同じ情景、同じしぐさと同じ声、それだけがいつまでも繰り返されている。壊れた記憶の映写機を、ひとりぼっちの映画館で見つめ続けている。なにもかもが、断片でしかない。それがあまりに悲しくて、必死で、起きたこと、起きていることを、なんとか留めておこうとしている。わたしの作業は、むなしいのだろうか。
 それでもわたしは、書くべきなのだろう。つい昨晩のことなのだ、わたしは何があっても、それをことばにしなければならない。もう文字もよく、わからない。こうしている間にも、何かが自分の内から失われていく。二度と取り戻せない、そんなものがあったことすら、一度なくしてしまえば分からなくなってしまうような、そんな何かが失われていく。そして文字はすぐ、歪んでにじんだ、ただの絵記号になろうとする。文字が分からなくなる。そんなふうになってから随分になる。
 それでもわたしは書かなければならない。この地獄の内にいる間に、いや、そこから抜け出すことももう、ないのかもしれない。ことばにすることで、わたしが救われるわけでもないだろう。わたしはもう、自分を許せはしないだろう。何かに助けてもらえるわけでもない。ただ自分の落ち込んだこの地獄を、鮮明に浮き上がらせようとしているだけなのかもしれない。自分の体に苦痛を刻み込もうとしているのかもしれない。誰かに見てもらいたいわけでも、ましてや、誰かの役に立つわけでもない。ただ醜いわたしのはらわたを、露悪するだけなのだろう。だがそれでも、この指先に、ことばになろうとしているものがあるのなら、わたしは何を賭けても、それをつかみとらねばならない。自己嫌悪に吐きそうになる。けれども決着をつける前に、書かなければならない。
 昨日もずっと調子が悪かった。もう先週末から眠れていない。頭では分かっていることが、身体に染み込んで行かない。気温はずっと蒸し暑く、汗もにじむのに妙に肌は冷えていた。一日中明かりを消した部屋で、窓は北向きに小さくて、奥の隅にはいつも薄暗がりがよどんでいる。わたしはそれを見るのが嫌で、いつも壁を向いている。充電コードをつないだままの携帯は、けれど一日電源も落としたままで、なぐさみにパワーボタンを押すと手の平にじじじと震えて明滅した。溜め込んだおよそ20の件名はどれも直截な単語が並んでいて、わたしは内容も見ないまま機械の書いた全てのメールを消去した。くちびるを動かさないわたしの言葉も、きっとあの中に溶け込んだのだろう。
 あおむけに転がる。妙に白い蛾が壁に浮かんでいる。透明感さえあるその白さは、さらした骨のなまめかしさで背景ににじんでいる。動かない。閉塞したこの部屋にも、空気のわずかなゆらぎはある。それにさえあの軽い翅もゆるがさず、同じ形でにじんでいる。呼吸すらとうに閉じて、むしろ周りの大気の時間さえ止めてしまっているような、そんな静謐さでそこにいる。切り絵の和紙の、死んだ繊維の静けさで、壁ににじんでとまっていた。
 思わず壁をどかんと殴った。こぶしを握ってもいなかったのに遠雷のような音が響いた。手の甲に赤い蜘蛛の巣模様ができていた。うずいた痛みはどこか自分の体でないような、隣の骨でじんじん鳴り続けていた。裸眼の目、薄暗い夕方の部屋、なにもかもがかすんでいて、現実ではない、手の届かない、わたしのものではない誰かの棲家で、ここにいてはいけないのだと、お前の居場所ではないのだと、隣室から聞こえる母子の声が主張する。ちりちりちりちりいつも鈴をぶらさげて、元気に明るく笑っている。火事でも出したらえらいことだからね、隣には小さなお子さんもいらっしゃるのだし、さっさとひきはらないなさい。いつも帳簿を睨んだままで背中で会話するその女は、必ず彼女の言いたいことだけを声にすると、それで話を打ち切った。わたしが幼子だった頃も、それから今も。お前はもうまともじゃないんだからね。あの小さな時代から、けれどわたしはどこにも自分のいるべき場所を見つけることができないでいた。そして電話が静かに鳴った。
 わたしは半ば眠っていたのかもしれない、しばらく反応できないでいた。上体を起こして頭を傾け、ただ受話器のある方角を見つめていた。いつまでも呼び出しは続いていた。どのくらいで取ったのだろうか。分からない。ようやく電話がなっていること、それが携帯ではなくて、固定の電話機であることを理解すると、そのこと自体をあまり判断しないまま、わたしは無言で受話器を上げた。
 彼女はいつも固定電話にかけてきた。なるべく携帯にして欲しい、何度か言ったがいつも鳴るのは固定だった。半年ぶりの電話だった。彼女がわたしにかけてくるのは必ず男とけんかした時で、短い時でひと月に一度、長い時で半年程度、そんな密度の知り合いだった。こちらから連絡したことはなかった。いつものように彼女の興味の日常を半時間ほどひとりでしゃべって、時折わたしに相槌を求めた。彼女の語るちょっとした事件が、どれもどこか遠くの絵空事のようで、わたしはぼんやり聞いていた。なにをそんなに楽しげに彼女は声にしているのだろう。だが、それでも、ひとの声を聴くとほっとした。関係のない社会で流れるリズムのない音楽のようだった。それから彼女は怒り始めて、わたしはなぜ彼女が怒ったのか分からなかった。ただ遠くで自分の声がごめんと謝り、あなたが謝らないで、ときつい声で返された。それからまた一人でしゃべりはじめた。ねえそうでしょう。口癖の同じ抑揚で、ねえそうでしょうと締めくくる。それから一歩息を吸い、また遠くの事件を物語る。けれどもそれは、わたしが思うより切実で、大切なものではなかったか。その日彼女は仕事休みで、けれど予定がすべて流れて、だから彼女と会うことになった。今からランチでも行かない、と、そんなふうな文句だった。もうおよそランチなんて時間じゃない。指摘するわたしに、今起きたとこだったから、とどうでもよさそうに彼女は言った。わたしは昨日と同じ服で街に出た。