しかしそれには、もちろん、罠がある

 ランチにフレンチを食べに出かける。まだ一度しか行ったことのないレストランである。しばらく前から、わたしの中でひとつ引っかかっていたところのある店である。上手くは説明できないが、どうも評価が確定できないのだ。以前行った時は、味その他についてなかなかよい感じがした。だが、同時にどこか小手先でごまかされているような雰囲気もあった。このような感覚を受けさせられるレストランは難しい。実際に騙されているかはともかくとして、そうした第一印象の飲食店は、たいていどこかになにかの問題があることが多い。もちろん、それが料理にあるとは限らないのだが。

 わたしは飲食店を評価する時、最低三回は行くことにしている。正直に言えば、そんな必要はない。たいてい一回訪れれば十分である。八割方のレストランは、三回行ったところで、一回目に下した評価から何も変わることはない。多少説明が詳しくできるという他、あまり得るものはない。それに残りの二割にせよ、初回の来店で、これはまだ十分評価できていないということが確実にわかる。合理的なことを言えば、それで初めて二回目、三回目と行けば評価には事足りるだろう。
 だが、ある種の礼儀の問題として、わたしは最低三回必ず訪れてから評価を決めることにしている。もちろん、自己満足といわれればそれまでである。だがまあ、そのくらいしてやってもいいのではないかという気がするのだ。自分が食を探求する上で、それもなにかの役には立つだろうとも思う。何より、初回に下した評価を(よい意味で)裏切って欲しいと期待する気持ちがどこかあるのは否めない。
 なので少なくとも三回来店した後に、自分の態度を決めている。昼の営業をしていれば、ランチとディナーの両方を、その三回に含めている。例えば最初が魚のポワレなら、次はシチューや肉の焼きものというように、そのたび傾向の違うメニューを食べる。可能な限り味覚がはっきりしてるようなときに店にいく。数時間程度は煙草も吸わず、口に残るようなものは食べない。シャンプーやリンス、洗顔料や歯磨き粉も、同様使ってから時間を空ける。整髪料はなるべく使わない。ここまですると、昔ほどではないものの、かなり精密に味がわかる。何よりその日の体調がよいことが、一番感覚に作用するようだ。
 そうした準備を下敷きにして、出された皿と格闘する。美観その他はまず置いておいて、何よりも味が重要だ。だが一言で味と言っても、料理には無数の味わい方が存在する。物語にさまざまな読み方が許されているようなものだ。ことレストランを評価する場合、中でも最も重要なのは、出されたままに味わうことだ。このように食べて欲しいと料理人が組み立てたとおりに、まず味わってみないと何もわからない。好きなように食べればよいのかもしれない。くだらないこだわりなのかもしれない。けれども同様礼儀の問題としても、わたしはそのように食べることにしている。もちろん素材の質を見たり、あるいは組み立てを調べたりするために、その一部だけを口に含めることもある。ソースを舐めたりすることで、何かつかめることもあろう。しかし、意図されたとおりにそれに向かい、自ら味の仕掛けにはまり、その中からもがき出ようとすることで初めて料理人の力量がわかるのだ。組み立てられた味の仕掛けも読み取れる。

 そんなわけで、この店への来店は二回目になる。前回は肉料理を頂いたので、今回は魚料理を頂くことにする。オードブル、スープのついたランチコースにする。最近この手の店のランチコースでは、オードブルにたっぷりとした量のものを出すのが流行りになっているようだ。たいていのお店で、ほとんどメインと変わらない分量のものがオードブルとして出される。もちろん品目は前菜とするにふさわしいものだが、ややサラダに近く野菜を多めに使いメインの具材自体も大切りで出されることが多い。ディナーなどのロングコースの序盤で出される、ごく少量づつ多種類提供されるオードブルとはそもそも発想や食事全体に対して果たす役割が違うようだ。身体をさわやかにさせ、胃腸の働きを活発にさせ、また味覚・嗅覚をはじめとした感覚を刺激し、食欲を増進させるという、いわゆる前菜としての役目ばかりでなく、ショートコースの中の一皿として、ある程度食欲を満足させるという働きも担っている。実はこうした「オードブル」をランチに出すのは、それほど奇異なことではない。南ヨーロッパのあたりをはじめとして、世界中のさまざまな料理体系の中ではしばしば見受けられる形である。それが短いコースのランチを出すようなフレンチやイタリアンの店舗の間でしばらく前から流行り始めているのは嬉しいことだ。ただとってつけたような前菜や、あるいはなにかのおまけのようなサラダを出されるよりも、よほど楽しめる。
 だがそこには、もちろん、落とし穴があった。
 バルサミコをベースに作ったソースが皿に模様を描き、新鮮な野菜が皿一杯にサラダ風に盛られている。上手に火を通された鴨が緑の中に埋め込まれるように散らされている。肉色から判断した限りでは、こうして冷製で食べるにはちょうどよいロースト加減だ。鴨特有のしっかりとした肉味が、冷たいままでも十分味わえるだろう。色彩的あるいは美観的なバランスはやや取れていなかったが、野菜と肉の味わい的なバランスも、見た限りではよさそうだ。全体の味をまとめるためにだろう、野菜のベッドの天井に半熟に焼けた目玉がひとつ落としてある。
 実はわたしは卵が食べられない。アレルギーではない。単に嫌いなのである。だが、恐らく普通の人が好き嫌いの範囲にあることとして想像できるよりも、はるかに、すさまじく、嫌いである。幼稚園の時から治らない。無理に食べさせられて、気持ち悪くなって吐いてしまったりしたことは何度もある。美食を志すものとして致命的な欠点である。卵料理はそれだけで一分野をなすほどの巨大な体系であるし、素材としても有数の美点を数多く兼ね備えたすばらしいものであるのだ。それゆえ何度か克服しようとしたが、いまだ乗り越えられていない、わたしの弱みのひとつである。
 とはいえ卵を使ったらなにもかもが食べられないというわけではない。だいたい美食以前に、それでは何も食べられない。むしろ卵を使った料理のほとんど全てが食べられる上、どちらかといえば好物といってよいものも多い。ただ肉料理で言うならば、ソースもかけずただ焼いて塩を振るだけといったそのままの、そんな卵料理が一切食べられない。具体的にはゆで卵、卵焼き、オムレツ、目玉焼き、スクランブルエッグ、生卵、その程度の卵自体が主役になっているものは、どうしても食べることができない。つなぎとして使われていたり、お好み焼きなどの粉ものや、あるいはケーキ・プリンの類は一切大丈夫である。アイスクリームもまったく平気だ。なぜゆで卵だとだめなのか、自分でもよくわからない。自分で料理をすることも多いし、実際卵もよく使う。ほとんど卵だということはわかっているが、プリンなど平気で食べられる。むしろ好きな料理である(別の理由、つまり甘いものがそれほど得意ではないため、量は食べられはしないのだが)。自分が食べることができない卵料理を、人に食べさせるために作ることもある。他の料理でつちかった料理カンとも言うべきもので、それなり形はつくれるが、実際まったく自信がもてない。聞いた限りおいしいとしか言われたことはないが(当たり前のことであるが、よほど根性が座っているか頭がおかしくない限り、作った本人に対してまずいとはなかなか言えないものだ)、味見すら自分でできないために(そしてしたところで味がわからないために)、どうしようもなく不安な料理である。だからよほどせがまれでもしない限り、卵料理を作ることはない。実際作って自分で食べてみたこともあるが、到底食べられたものではなかった。それはわたしの卵料理の技術の問題であるのか、それとも嫌いゆえのことなのか、いまだわたしには分かっていない。なお、食べられないのは鳥の卵に限ったことで、魚の場合は問題にならない。亀など爬虫類は浅学ながら試したことがないために、よくわからない。
 したがって特に一見の料理屋では、うっかり卵料理を頼まないように細心の注意を払う。さすがにこれだけいろいろとレストランを巡っていれば、どんな料理に卵が使われているか、聞くまでもなくたいてい全部知っている。だいたい食べられないのはゆで卵やら目玉焼きと、卵を使ったもののなかでもごく一部にだけ限られるのだ。あとはそれを組み合わせているものを避ければよいだけのことだ。危ないのは創作料理のたぐいで、たまに意表をつかれるが、それ以外ではまず間違えることはない。かつて犯した過ちのように茶巾寿司に引っかかることももうないだろう(その存在自体は知っていたのだが、まさかおせち料理の中でめぐり合うとはつゆも思っていなかったため、うっかり口に入れてしまったことがある)。
 だが、油断した。サラダに半熟の卵をあわせるのは定石である。スクランブルにせよ目玉焼きにせよ、あるいはポーチドエッグにせよ、どの場合もごく半熟にしつらえて野菜に絡めさせるのだ。鴨の前菜というのを聞いて、サラダ仕立てというのが頭から抜けてしまったために、まったく想像から消えていた。
 うっかりとして、あるいは故意のこともあるのだが、こうして食べられないものを頼んでしまった場合に、とるべき道は二つある。たいていの場合はわたしは食べない。押し付けられる人がいるならば、皿ごとでも卵だけでも押し付けてしまえばよいし、そうでなくとも卵だけをより分けられるような料理はそれだけ残せばよいことだ。分けることさえできないならば、いっそ全てを残してしまう。
 だが食べざるを得ないこともある。自分の下した評価として、尊敬に値する料理人が作ったものの場合は礼儀として食べないわけには行かない。そうしたごく一部のすばらしい料理人には、わたしは最高度の敬意を持って接することにしている。出されたものを残すのはもってのほか、ちゃんと味わえる自信のある時でない限り、その店自体行かないことにしているレストランもある。逆にそうでない店舗の場合、特にひどいものを出されたときなどには、わざと残したり食事中にタバコをつけたりしたこともある。
 それ以外の場合としては、プロの料理人ではない人が、わたしをもてなそうとして、嫌いであることを知らず卵料理を作ってしまった場合である。やはり礼儀として食べざるを得ない。もともと演技は上手い方なので、あまり顔色を悟られず、何とか飲み込むことはできる。味わっているふりもする。もっともあまりに量が多かったため、精神力が途中で尽きてしまったことはある。卵だけをわたしが食べられる限界は半個がせいぜいなのである(卵それ自体が主役の料理を除き、一人分が半個以上あるメニューなどまれであるのだが)。
 今回は店を知ろうとして、そのために頼んだ料理である。この料理人に敬意を払う価値があるかどうかはまだわからない。だが最終的な評価を下していない以上、それまでは最高度の敬意が払われねばならない。これはわたしのプライドの問題である。くだらないことではあるが、わたしが自分を保つために必要なことなのだ。
 したがって野菜やソース、鴨自体の質や味、なされていた仕事を見たうえで、覚悟を決めて卵を食べた。ナイフでやや大きめの一口を切り取り口に入れる。ほとんどが白身である。入れた以上味わってみなければならないのでしっかりとかみしめ味を見る。やや淡白で、卵にしては少し水っぽいようだ。クセは少ない。アクをあまり感じないので卵としては上質のものなのだろう。
 次に黄身を潰して、流れ出たものに野菜や肉を絡めて食べる。もちろん、こうして食べられることを意図して作られた料理であるのだ。やや白みがかった周辺から、中心に向かうにつれ濃い桃色に変わっていく美しい鴨の切り口に、色の変化がわからなくなるほどたっぷりと黄身をまぶす。少なめにソースをつけて、野菜と一緒に口にほおり込む。半熟とは言え一度熱を通された、卵の黄身はやはり濃厚で特有のにおいが口腔粘膜全体に広がる。舌ざわりは濃いクリームに近い。肉全体をかみしめて鴨の味を期待するが、やはり黄身があまりに強く、まったくそれがわからない。全てを塗りつぶすような卵の味の中で、かろうじてバルサミコの味がわずかにわかるという程度だ。
 これを繰り返すうちに、黄身はほとんど食べてしまった。白身が半分ほど残っているが、もはや精魂尽き果てて、そちらは残すほかはなかった。卵の味がまったくわからないものが判定しているので、これを料理としてどう見るか、まったく公平ではないし、また正直なところ正確でもないとは思う。だが、いくらサラダにあわせるのが定石とは言え、またいくら肉としてはクセも味も強い鴨とは言え、淡白になりがちな冷製肉の味わいを、黄身とからめさせては殺してしまうのではないだろうか。確かにサラダに温かい半熟卵は定石だが、脂身を除いた鴨にはあわないように思われる。あえて卵をからめるならば、肉も温かくするか、あるいは脂の多い合鴨を使うべきではないだろうか。恐らく鴨特有の血なまぐささを殺そうとしてのことでもあるだろうが、冷製にすることで十分に、それは対処できているように感じられる。それにそのクセそのものが、鴨を食べる魅力でもあるのだ。
 水を飲みスープをすすり、またパンを口に入れた上でも、舌にからみついた卵の味が消えた気がしない。恐らくは精神的なものであろうが、いつまでもその味が身体に残っている感じがするのだ。メインはまったく味がわからなかった。ものを味わう上ではわたしにとってほとんど最悪の体調だったと言えるかもしれない。お店の評価など、する以前の問題になってしまった。結局今回は、ノーカウントとせざるを得まい。非常に残念なことである。コーヒーを飲んでもそれは消えなかった。帰って念入りに歯を磨いたがそれでもいつまでも不快に残った。結局次の朝起きるまで、卵の味は消えなかった。