辞書の時間

 人と会う。といっても定期の読書会に出かけただけである。会自体の内容は既に忘れた。そう言えばこれも時間に関する話だったはずだ。ドラえもんは出てこなかった。代わりにアンジェラの鐘とセックスのことばかり考える女とブルームが出てきた。ハロルドではなく。
 それはともかく、発表者にせよ他の参加者にせよ、みんな時間はまっすぐなものと考えていることには驚かされた。わたしにはとてもそんな風には見えないのだが。物理学がなんと言うかはどうでもいいが、もうちょっとたちの悪いものではなかったか。まっすぐになっているものと感じる人がいることは、もちろん知ってはいたのだが、まさかみんながみんなだとは思いもしなかった。まだ幼い頃よく遊んだ兄弟がいたが、この読書会での驚きと同じような種類の感情を、彼らに感じさせられたことがある。彼らはほんとうに仲のよい双子だった。わたしを含めて三人で遊んだことが多かったが、兄弟でくっついていることも多く、また二人にしか通じない言葉で語り合い、子供心に嫉妬を感じた覚えがある。二年ほどその関係が続いただろうか、幼稚園を出てしばらくするとほとんど会うことさえなくなった。その頃に誰かの話から、二人が双子どころか兄弟ですらないことを知った。数年の間自分の世界の前提として(その世界がいかにちっぽけなものにせよ)、ずっと信じ込んでいたことが根底から覆される気分だった。騙されていたのかはわからない。悲しみや怒りよりも、むしろ興が醒めてしまったような、そんな種類の驚きだった。読書会の人々がみなあたりまえのようにそれがまっすぐだと信じていたことにも、どこか似た種類の驚きがあった。
 しかし時間とかその他の日常的なことがらで、わたしの感じていることが人と意見があわないときには、たいていわたしがおかしいのだろう。今までずっとそうだったし、これからもずっとそうだろう。それにそれでだいたいうまくいくのだ。わたしは一人でだれにも言わず、自分の感覚を信じておけばそれでよい。
 実際の話、いろいろ思い返してみたのだが、時間について何かを言ったたいていの人は、それがまっすぐだと述べている。もちろんいろんなバリエーションはあるにせよ。ドラえもんでも時間の軸がたくさんあったりねじれたり、その中を行ったり来たりもしはするが、そのひとつひとつを見てみればまっすぐであることには変わりない。途中で枝分かれしていても、枝のそれぞれはまっすぐである。アインシュタインにせよ同じようなものだ。軸として、つまりまっすぐなものとして捉えていることには変わりない。スネオのように意地悪そうなアンリなんとかというフランス人も、根本的にはいっしょのことだ。個人個人で早くなったり遅くなったりしもするが、あるいは別の言い方をするなら、そのまっすぐな時間の軸がところどころで太くなったり細くなったりするのだが、時間自体がまっすぐであることには変わりない。仏教の古い経典や最近の物理学者の一部が言うように、飛び石のように流れてるにせよ、結局その石の切れ目が細かすぎ、人間に感じられないとするならば、それはまっすぐであることと変わらない。思い出せる限りでは、すべからくみな時間はまっすぐであるように感じられているようだ。
 するとわたしがほんとうにおかしいのだろうか? だが、みんなが言うように、途中で枝分かれしたりくるくる回ったり太くなったり細くなったり顕微鏡で見たら点線だったりするにせよ、そんなまっすぐな線として描けるようなものなのだろうか? わたしにはどうしてもそんなたちのいいものには思えない。まっすぐな時間を小説を頭からまっすぐに読むようなものとするのなら、確かに時間にはそういうところもあるのだが、わたしの感じている時間は辞書のようなものである。
 まっすぐに小説のように流れるのもいいのだが、小説にはしばしば分からない言葉も出てくるだろう。そういうときには辞書を引く。目的の語のページを開き説明を読む。もしもその説明のなかに、またわからない語があったなら、次にはその語のページへ飛ぶだろう。ページに打たれている番号とは関係なく、一冊の本をでたらめにめくっていることになる。一度に辞書の二箇所を同時に読むこともある。そのうちに本来辞書を引いた目的とは関係のない項目に興味を引かれ、そこの項目や派生語や、あるいは同義語、例文などを調べたりもする。気がついたらしばらく前に引いた項目に戻ってきたりすることもある。こんな風に時間がながれることがよくある。たぶんわたしだけではないだろうのに、なぜみんなは気がつかないのか。