それでもベンヤミンは神に怒りを覚えなかったのか

 やや調子は下降気味。
 それも仕方のないことなのだろう。こうして上下を繰り返しながら少しずつ普段の調子を取り戻していくのだ。株価と同じようなものだろう。もしも以前の状態にまで戻れるのならばだが。
 あまり何もする気もおきず何もしないままに一日が過ぎた。この繰り返しで年老いてきたのだし、この繰り返しで朽ちゆくのだろう。あとどのくらい生きていなければならないのだろうか。そう長くはないような気がする一方で、まだまだ続いていくような気もする。
 過去のどこかで、わたしは一回死んでいる。
 わたしには到底誰も救えはしないし、誰もわたしを救うことはできない。わたしが何かを言ったとしてもそれが誰かに伝わることはない。誰かが何か言っているとしてもわたしにその人がわかることはない。人のつながりはもはやない。どうしても誰かに伝えたいことがあったとして、それがほんとうに伝わっているかを求めるならば、無限の連鎖に落ちていくしかないのだろう。心が伝わるなどということはこの意味において絶対にない。社会や人間関係などというものは、それぞれの個人が自分の内に写し取った他人のマネキンを相手にしているようなものだ。そう考えた時、わたしはもう人間でなくてもいいと思った。
 なんと悲しいことなのだろう、人と人とは手を伸ばしても絶対に届かない距離に置かれているのだ。そして誰もがひとりひとり、それぞれ別個に孤独であるのだ。何を伝えることもできない、ただ自分がここにあることだけを示すことしかできない生き物であるのだ。みんな同様苦しむのだろう、だがそれに対しても誰もどうしてやることもできない。それぞれの地獄の中にいるものに対して礼を尽くそうとするしかない。自分だけが一人なわけではないのだから。せめて自分ひとりで苦しむことにしよう。
 それを感じ始めた頃はまだ、それでもどこかに救いがあるのではないかと思っていた。言葉自体はあきらめたとしても、どこかに何かがあってくれると期待していた。そしてどこにもないことを、やはりどこかで分かっていた。セックスにそれを求めたこともある。その間のほんの一瞬にわずかに救われたような気がしたのだ。性交自体の興奮とはほとんど相容れないような感覚なのだが、何かしらわたしを安心させるものが、確かにそこにあったのだ。そのほんのつかの間の安心を求めて、半ば狂ったかのようにいろんな人に声をかけた。けれどもその安心感が去った後には、常にそれまで以上になにもかもから突き放された。結局一人ぼっちでしかないことを確認しているに過ぎなかった。
 そのようにしてわたしは死んだ。後はただ抜け殻だけの死者として、動いているようなものである。そのときに抜け殻も死んでおくべきだったのだろう。こうして死者として生きているのはみじめである。常に腐臭を撒き散らし、自分ではそれをどうすることもできない。ここにいるのは中途半端な死に損ないの蔑むべきゾンビでしかないのだ。だが生ける死者としての苦役から、解放される日も遠からず来るだろう。