醜い関係

 この日も飽きずに病院へ。半ばは無理やり母に連れて行かれているようなものであるが。
 わたしは病院になど行きたくない。いや、それ以前に母親などといたくない。彼女はわたしがこれまでの生涯の中で知っている誰と比べても、どの一人よりも一緒にいることが疲れるタイプの人間である。わたしの精神力を吸血鬼のように吸い取っていく。
 この世で一番嫌いなタイプの人間である。特有というほどではないが女性に多い性格のようだ。男性にもいないことはないが数は少ないように感じる。わたしの所属している研究室にも一人いる。わたしの母ほどこすっからくはないのだが、わたしの母以上に自己中心的だ。こういうタイプの女を母に持つとその子どもは大変だ。研究室の女性はもう中年だが子どもはいないそうなので、その心配は今のところはないだろう。
 現在も母は小さな店を営んでいる。今となってはこの店だけがわたしの実家の収入源だ。家にお金を入れるために就職させられることもなく、いまだにわたしが院生を続けていられるのは彼女の店のおかげである。そのことに関してはいくら感謝しても足りないだろう。だが、それを十二分に、恐らく必要以上に、感謝するとしても、彼女の人格の欠点だけはわたしは絶対に許せない。この世に生きている、そしてこの世に生きていた、あらゆる人間の中で一番嫌いな人を一人挙げろと言われれば、迷うことなくこの女をわたしは指差すだろう。もちろんわたし自身を除いての話であるが。
 なぜこれほどまでに、自分自身の母親をその息子が憎むのだろうか。なにかの捻れた愛情なのかもしれないし、(同じことを言っているような気がするが)自分が最も母親からの愛情を必要としていた幼子の頃に、その当の本人から見捨てられたからなのかもしれない。これについてはまだはっきりとは分かっていない。わたし自身が分かりたくないことなのだろう。だが、だからこそ自分自身の何かを壊してまでもわたしはそれを突き止めねばならない。
 今日もまた嬉しそうに見舞いの準備をしてわたしをせかす。自分のしたい話だけをする。相手の意向や思いなど考慮することさえまったくない。誰に対してもこのとおりだ。自分の話したいことだけを常に話しているというのは、もっともわたしもしていることがしばしばある。意識してはいないのだが、そうなっていしまっていることがある。わたしもこれには常に気をつけていなければならない。
 だが彼女の人格の欠陥は、もう少し深いところにあるだろう。何事も自分中心にすること自体は、彼女自身でできる範囲であるならば、そして彼女一人でそれをするというならばまったくかまわない。好きにすればいいだろう。わたし自身そうしている。しかし彼女はそうではない。他人の手を煩わせたり、他人の時間を取ってしまったり、そのほか他人に何かの負担をかけるようなことでも、平気で自分の意向を常に優先させようとする。しかもただ周囲の人々を巻き込んで自己中心的に生きるというのではなく、どんな場合にも周囲の人がそうしてくれるのが当たり前で正しいことだと思っている。この傲慢さがわたしには絶対に許せない。母に限らずこのタイプの人間はみんなそうなのだが、その正当化がどれだけはた目に理不尽なものでも、彼女の主張するとおりに行うことが正しいのだと必ず言う。ごり押しとして言うだけならばまだしも救いはあるのだが、彼女自身がその正当化をまったく正しいものだと偏執狂的に確信している。自分が間違っていることなど夢にも思わない。例えば「世間の常識」などであるとか、その根拠を外部に求め、その実彼女自身に都合のよいように行動しようとしているだけである。どう客観的に見ても、彼女たちの言うことはまったく世間の常識であるとかそうした外的な基準に照らして正しいようには思えないのだが。だがこの種の人間たちはそれが本当に正しいと、本気で、信じ込んでいるのだ。自分中心になにごとも行おうとする傲慢さ自体も許しがたいものであるのだが、はるかそれ以上にそれを心底正当化するその無神経さをわたしは憎む。
 このタイプの人間と、何かの仕事や任務を一緒にやるように任されることほど大変なことはないだろう。奴らは自分の好みや意向どおりにすべてを進めようとして、その仕事のために一番これがよい(儲かる、効率がよい、好まれる)などと主張して(それはどうみてもまったく正しくはないことがほとんどだ)、際限なく相方の仕事を増やすのだ。やりたくない仕事は、それは自分に向いてないから、などと言い相手に押し付ける。そして自分がやってみたいことを見つけると、それまでの予定をすべて曲げさせて、無理やりそっちに進路を持っていこうとする。予定を変えたことで増えるようなさまざまな手間を一人でやると言うのなら許せるのだが、実際にそれで一番負担になるようなところや、そうでなくても奴らがやりたくないと思うような仕事は、また適当な理由をつけてすべて他人にやらすのだ。ちょっとばかりの簡単な、奴らの趣味にあうような仕事だけをこなして、その仕事の全体をさも自分がやったかのように振る舞っている。何度か経験があるのだが、こういう人間とは二度と一緒に何かをしたくはない。研究室にいる年増女にもひどい目にあわされた。彼女らの自己正当化がまったく正しくもなく、実際本当にそうしたい理由は別に(奴らのエゴとして)あることを、はたで見てればすぐにわかるものなのだが、なぜこうした女どもは自分自身のことなのにその醜悪さに気がつかないものなのだろう。
 ひとり息子なのだから父親が入院してるなら毎日病院に通うべきだ、と彼女は言って出かける仕度をするようにわたしをせかす。わたしはそんなことは信じていない、行く行かないはそんなことには関係ない。だいたいわたしはお前たちを血のつながらない他人であると思っている。だがそれは問題でない、だいたい見舞いに行くこと自体わたしは別段やぶさかではない。何よりただの親切心から足しげく病室に通ってくれているいとこへの義理がある。お前たちのためではないが、このいとこのためならばいくらでも病院に通おうと思う。その時やりかけていることもあったが別に中断したっていい。行きたくないわけではない。ただ、お前と一緒には行きたくないというだけだ。それすら彼女は分からずに見舞いの準備をわたしにせかす。
 だいたい彼女自身気がついてもいないだろうが、この女は実際には見舞いに行きたいわけじゃない。病室に行ってやっと自分が夫よりも優位に立って、(少なくとも表面的には)それまでのこの男の悪行を水に流してやさしく接してやっているというその姿を、わたしや他の人々に見せつけたいというだけなのだ。やることなすこと一見すべて病人のためであるようでありながら、実際にはそれをしている彼女自身が看病してやっているという自分の姿に満足するためだけのものである。だから地味で、だけれど一番大変なところは自分からしようとしはしない。この女自身は本当に病人のためにいろいろやってやっているつもりなのだろう、だがそれを受けている父の方はそれを望んでいるのかどうか、お前は考えたこともあるまい。それで自分の姿に満足して、心底病人のためにやっているのだと信じていることだろう。わたしはていのいい観客だ。お前がその舞台の上で自分の演技に酔うために、それだけのためにつれてこられた観客なのだ。
 わたしはこの女のこの傲慢さ、無神経さを一生許しはしないだろう。行きの電車の中では聞きたくもない話を延々聞かされる。夫が入院したまさにその時に、彼女の店のただ一人の使用人が事故で骨折してこちらも入院したという。それは確かに不幸で不運なことであろうが、その不運をこの女は事故で足を折った使用人のせいにしているのだ。どうしたらここまで身勝手で傲慢になれるのか。その使用人の女性が起こした事故であるならまだ理解もできるのだが、話を聞いた限りでは彼女は完全に被害者である。非はまったくない、単に車にぶつけられたのだ。この大変な時に、自重してって言ったのにさ、と母は言う。休みの日にどうせ浮かれて遊びに行っていたのよ、遊び歩いて事故をもらって、こっちは入院患者を抱えて休みもなにもなく忙しくしているって言うのにさ。話す母の顔はどうしようもなく醜く歪んでいる。どうしたらここまで自分勝手になれるのか、どんな人であれ休みくらいは自分の好きなように過ごしたいだろう。使用人の人にせよ、聞いていた話ではここ数年何かと大変なことがあったのだ。お金にも困り母の店だけでなく早朝にパートを掛け持ちしているのだという。それがたまの夏の休みには、少しは羽根も伸ばしたいだろうに、お前は自分がたいへんだからといって、他人にまでそのたいへんさを押し付けたいのか。入院患者を抱えるという不幸を(彼女にとってあまり不幸とも見えはしないのだが)、誰か他人のせいにしないと気がすまないのか。
 これ以上この女の話を聞いている気も起きず席を立つ。なにもかも最悪である。今回のことに限らずに、何かと愚痴を言っていないと気のすまないような女なのだ。本当に小さい頃からいろんな愚痴を聞かされた。だいたい今から考えれば小学生にそれを聞かせてどうするのだ。覚えていないがどうせ小学校に上がる前から言っていたのだろう。わたしに対してだけのものでもなく、誰彼なく相手の都合など考えず、とにかく自分の言いたい愚痴だけをえんえんと話し続ける。ろくに商品を買いもしないお客さんの愚痴を一時間も聞かされてたまらないのよ、そんな気の滅入る話ばかり聞かされたくないじゃない。これが彼女の十八番の愚痴だ。いったいどの口がそれを言うのか。
 確かにわたしだって本当に苦しい時に、誰かに頼ってしまったり、愚痴を吐きたくなることもある。だが少なくともお前のように、毎日毎日それを誰かに聞いてもらえるのが当然のようには思っていないぞ。こうして一日を生きているのはどれだけ苦しいことか、それはまだ理解してもやろう。だがその苦しみを味わっているのはお前だけではないのだ、世界中のどの一人を取ってみても、子どもだろうが成人だろうが、もはや余生少ない老人だろうが、お前のその愚痴を毎日のように聞かされている人々だって、みな一様にそれぞれの苦しみを引き受けているのだ。そしてそのほとんどの人がたいていの場合には一人でじっと耐えているのだ。それが分からず自分だけが苦しいものだと思い込み、みんなが自分をいたわってくれるのが当然であると思っているような人間とは、少なくともわたしは、絶対に共には暮らせない。わたし自身、あるいは自分だけが誰よりも苦しんでいるように思いたくなるようなこともあるし、そのように行動してしまったりすることもある。だが、わたしはそれをどうあってもわたし自身に許すまい。自分自身への絶対的な戒めとして許すまい。
 家族に入院患者を抱え、自分の店の使用人は失い、肉体的にも精神的にも、金銭的にも、時間的にも、とてもとても大変であるというのは認めよう。それだけでなく、一日一日をお前が暮らしていることも苦しいことだというのも理解しよう。そのたいへんさ、苦しさというものは、時にはどうしても一人で耐えることができなくなるというのも、わたしにだって分かっている。そんな時には愚痴を言ったり、実際的なことでも心のことでも誰かに頼ったり、弱音を吐いたりすることがあっても、そのこと自体は許してやろう。もちろんわたし自身であっても、どうしても一人で耐えていることができずに、自分自身の殻がほころび人に迷惑をかけてしまったり、それどころか誰かに弱音や愚痴を吐いてしまったり、精神的に頼ってしまったりしたことは何度もある(日記にも書いたことがあるだろう)。完全に参ってしまっていて、相手のことまで気がまわらずに、迷惑をかけるべきでない人、迷惑をかけるべきではない時、それをしてしまったこともある(本当に情けないことだが、わたし自身の憎むべき弱さだ)。だがけっして、自分だけが特別に苦しいのだとか、そうしてもらえることが当然であるなどと、お前のように思ったことはないぞ。確信はないが、たぶん人の強さはまちまちであるし、ひょっとしたらどれだけ強い人であっても常に必ず一人でそれに耐え続けるのは不可能なことであるかもしれない。そんな時は、人に頼るのは仕方のないことなのだろう。積極的に自分に許すことはしないが、述べたように、わたしも人に頼ってしまうことはあるし、そうした人がいたときにわたしに頼ろうとするならば、それが誰であれわたしはその人を許すだろう。たとえ自分が苦しい時であってもだ。もちろんそんな時にわたしにその人を支えきれるかはわからないが、自分にできる限りの力でその人を受け止めようとするだろう。受け止めきれるなどとは言わない、誰のものであったとしても他人の苦しみなど、少なくともわたしには、受け止められるものではないだろう。だが、それでも、その無力さに自分自身が打ちのめされることになろうとも、そうしてやりたいと本心から思う。
 だが母はそうではない。自分自身の苦しみに、それがささいなものであってもまず一人で耐えようとは思いもしない。人に寄りかかり、他の人のことなど知らずその負担をただ転嫁しようとする。そうしてもらえるのが当たり前だと思い、彼女に迷惑をかけられる人に感謝の心も持ちはしない。それどころかこの女の態度は、わたしの負担を負わせてあげる光栄を与えてやっているのだからあなたもわたしに感謝なさいとでも、ほとんど言っているようだ。それで彼女自身といえば、それが家族であってすらも他の人の苦しみなどはけっして支えようともしない。あの最低な男を弁護する気はまったくないが、父がまだ若く健康で遊び歩いていた頃に、なぜ家には近寄ろうとしなかったのか、少しは考えてみるがいい。幼いわたしに対しても同じようなものであった。絶対的に頼るものとして両親を、とりわけ母親を必要とするような頃、幼稚園児のわたしにすら自分の話したいことだけを話し、わたしがその時悩んでいたことや苦しんでいたことについてはなにも聞こうともしなかった。自分からそうしたことを聞こうとしなかったと言うだけではない、わたしがそれでも話そうとしても聞くこと自体を母は完全に拒絶したのだ。なるほど大人の彼女から見れば幼稚園児の考え悩むようなことは、相手にするのもくだらないことに思えたかもしれない、あるいは餓鬼の癖に大人の顔色を読もうとする得体の知れないような子どもと関わりたくもなかったのかもしれない。だがわたしに対してだけでなく、この女は誰に対しても絶対に自分のことしか話さずに、他の人が彼女に少しでも頼りたそうにすると、その話自体を拒絶する。そうすることが自分の権利なのだと思っている。どうしたらこんな身勝手な人間が出来上がるのか親の顔を見てみたいと本心から思っているが、残念なことに祖父母はともにわたしが生まれる以前に他界している。
 だがあるいはわたしにも、彼女のような行動をしてしまうことがあるのだろう。わたし自身のどうしようもない弱さのゆえに、情けないことに、人に頼りそして人を傷つけてしまったことがある。一人で苦しんで一人で耐えておけばよいものを、自分の中にそれを抑えておくこともできず、寄りかかってはいけない人に寄りかかってしまったこともある。それがわかっていてもなお、いまだに誰かに頼りたくなることがある、これを書いている今にしてもそうだ。どうして自分の中にしまい込んでおけないのか。わたしはこの自分の弱さを憎む。「弱さゆえ」などと弱さを言い訳にしてしまう自分の欺瞞もまた憎む。それは弱さなどで許されるようなことではない。このように母を憎むのも、わたし自身のこの許されないような欠点を彼女の中に拡大されて見せられてしまうからだろう。せめて誰かがわたしを頼ろうとすることがあるならば、その時にはできるだけほんとうにそれを支えたい。だがそれ自体もわたし自身のためでしかないし、そうすることでわたし自身の醜さをなんとか隠そうとしているのだろう。その行為自体が醜さを上塗りしようともしているというのに。だが、それでも、わたしはほんとうにそうするしかないのだ。