妙な怒り

 週一の読書会。今日はオスカー・ワイルド。担当者が選んだのは童話集のもののようだ。ワイルドは嫌いな作家ではないが、どうにも語ることがない。
 「童話」のような小ジャンルを考える時に有用性のあることとして、メモ。
 童話に対して小説(ノヴェル)と置くとあまりに広すぎるので、こちらも小ジャンルとして仮に推理小説を挙げて考えてみる。別に他のものでもいい(実際に読書会の議論で挙げたのは、SF小説とか恋愛小説だった気がする。これは問題がある。問題点については後述)。

  • まず限定。最上位のジャンルとして小説(フィクション)を置き、その中に含まれる下位のジャンルの一部について考えることにする。この場合の小説はできる限り広い意味でとる。
  • 考え方。下位ジャンル同士の違いというのは、それぞれのジャンルが固有にもつルールの違いと考えることができる。小説(フィクション)という最上位ジャンル自体もそうなのだろうが、考えにくいのでパス。あくまでその中の下位区分についてのみ。
  • 補足。要するにウリポが言ったこと。
  • どのようなジャンルであれ、そのジャンル特有の規制であるとか、制限であるとか、守らなくてはならないルールがある(当然、そのジャンルのルールをあえて破ったような作品というのもあるのだが)。ジャンルの特異性(そしてウリポが正しいとするなら芸術的価値)は、このジャンル特有の規制に依存する。
  • 例えば推理小説であるならば、推理に必要な情報をどのように読者に与えるかについて細かいルールが存在している。同じように童話も、それが童話であるために使ってよいモチーフとか表現にさまざまな制約がかかっている。
  • この回の読書会のように、特異な(あるいは極めて限定されたような)ジャンルを扱う場合には、そのジャンル自体を考えるよりも、そのジャンルを規定するこうした制限に目を向ける方が分析したいなら有効なのではないだろうか。

 そんなに分析などしたくないし、詳細に考える気はしないがツールとしてはまあ役に立つこともあるだろう。わたしはウリポほど大胆には考えられないので、適用範囲はごく狭く限っておいた。ジャンルといってもあくまで明確に区切れるものに限る方が考えやすい。SF小説とか、恋愛小説とかは(推理だってそうなのだが)、SFや恋愛と銘打ちながら実際に主要なテーマがSFや恋愛ではない作品が大勢を占めるのでこの方法で考えるのは危険か。例えば、エリック・シーガルある愛の詩」は原題でラブ・ストーリーと謳いながら、恋愛はあくまでモチーフというかギミックというか物語を進めるための仕掛けに使われているに過ぎず、主要テーマは父と子の物語になる(スター・ウォーズも同様)。このようなモチーフで分類したジャンルにこの考え方を応用するのは(理由を深く考える気もしないけど)とても危険そうな予感がする。推理はまあ推理のための推理や冒険ものに落ち着くことが多いのでいけるでしょう。


 それはともかく、なぜこんな一般論をわざわざ読書会などでしたかというと、担当者に妙な怒りを覚えたからである。他参加者から作品のいろいろな点について指摘を受けて、例えば表現がなじまない、(英語的な問題ではなく)読みにくい、物語の展開が不条理、救われないなど、それら指摘に対して、これは童話だから、と返していたのが気に食わない。その不快感がなんなのかはよくわからない。童話だから、などと言って逃げず担当者ならもう少ししっかりと考えて来い、というのとは違う。違うのだが、自分でも何に気に食わないかがよくつかめず、結局そんなようなことを言うために上の議論をした気もする。
 悪いことをした、今にして思えばそれは確かに童話だからとしか言いようのない問題をはらんでいるのは明らかだ。だが、不愉快に思ったのは確かだし、今でも不愉快に思っている。気に入らないのは、指摘された問題に答えていないことや考えられなかったことについて怒っているのではないだろう。わたしが不快に思っているのは、担当者の態度そのものだ。童話なんてしょせん子どもに読ませるようなものだから、という感情が担当者の口調の裏にはどうにも感じられたのだ。しょせん子どもの読み物などに深く考えたってしょうがない。それは随分子どもに失礼な主張である。子どもだけでなく童話作家や、童話専門とはいえなくとも童話を手がけてきたさまざまな作家に対して失礼だ。担当者に限ったことではなく、その場の参加者の大勢がこうした態度であったのだが、それにしても自分でこの作品を選んだのならばその姿勢はないだろう。上に挙げた、まとまっているとは言いがたい、なんとも中途半端な議論でやりたかったのはこうした考え方に対する反論である。
 童話にせよまた推理その他のジャンルにせよ(そして分析のツールとして危険だと言う感覚はあるが、恋愛小説やSFにせよ)、結局は規制の問題なのである。その規制(ウリポらしく様式と言ってもよい)の中でどれだけの面白さ(や、そんなものがほんとにあるかは知らないが、芸術的価値、美)を生み出すかがジャンルの別あれ作家の力量と言えるのではないか。これはまた逆方向の極論であるが、目に見えて規制の厳しい分童話というジャンルの方がそうした価値が高いとも、主張することもできうるだろう。
 同じ方法論やツールを使ってとはいくまいが、童話にせよあるいは絵本や幼児向けの本にせよ、この意味においてなんらその他のジャンルと違いはあるまい。規制の種類が違うというだけの話である。ならばそれを踏まえた上で議論をするなら、その他の(いわゆる文学的とされるような)おはなしと同じ俎上で考えることができるであろう。確かに必ず成功するとはとても思えない。実際、既に吟味を重ねた方法論を持ついわゆる文学的作品(もっと言うならキャノンと呼ばれるもの)に比べ、必要な作業や努力に対して得られるものは割りがあわないことがほとんどだろう。だがたとえ(「文学」的分析として)失敗に終わるにしても、せめて正面からそれと渡りあった上で語ってもらいたい。さもなければ何も語らないかだ。