物語と夢、過去と記憶

 数時間眠っただけで中途半端な時間に起きてしまう。非常にもやもやとした眠気が手の先や足の先など身体の端の方にタール状になった機械油のように溜まっている。
 つまらない夢を思い出す。数日前に見た夢のはずなのだが、今見たもののような気もする。最近まったくなかったことだが、この一年以内にあったことの夢だ。このごろわたしは、かなり昔のことしか夢に見ない。どれだけ近くても五年ほども昔のことであったりする。この夢はほんの半年かそこら前にあったことの夢である*1
 どうもわたしは、過去を処理していくのが下手糞なようだ。いつまでもそれにとらわれている。自分が経験したことを過去にすることができず、過去を終わったことにすることができない。そんな感覚がある。
 ここ五年以内のことをあまり夢に見ないというのも、そんな理由によるのだろう。それらの出来事がまだ、なかなかうまく、わたしの中で過去にできないでいるのだ。ましてや終わったことなどにできないでいるのだ。
 夢についてアンケートを書かされたことがある。どんな内容のどんな夢を見たか事細かに詳細に書かされた、確かわたしは自分で挿絵まで描いて渡した覚えがある、卒論に使う資料にするのだ、と彼女は言った、あれはいつだったか。サークルの同級生に頼まれたのだから理学部の四回生の時のはずだ。わたしなどとは違い非常にまじめで普段から勉強しているような人だったから、他の学年、例えば五回生であるとかのはずはない、わたしは21か22だった、もう7年も前になる。わたしの書いたものは役に立てたのだろうか? それが彼女の卒論にとって重要なことであったのかはわからないが、非常に情熱的に、微に入り細に入り書き尽くしたはずだ、その後なんとか数学科を卒業して文学部に入りなおしたばかりの頃、その文学部の廊下ですれ違ったことがある。きっと何の役にも立ちはしなかっただろう、それこそ今こうして書いている、そしてこれまで色々と書き連ねてきたさまざまな文と同じように、わたし自身にとってそれが必要だったから、その時も意味もなく熱に浮かされたようにそれを書いたのだ、廊下ですれ違った時確か向こうは教育学部修士だったはずだ、恐らく文学部開講の心理学系の講義でも受けに来ていたのだろう。
 その時に聞かされたのだろうか、どこか別の時、別の場所で、別の誰かに教えられたのか、見た夢を思い出そうとしたりまして記録しようとするのはいけないそうだ。彼女のように研究のために仕方なく夢日記をつけたりしている人はいるが、そうした必要がないならば、絶対にやめた方がいい。相当厳しい口調で言われたはずだ。わたしにはよく理解できてはいないのだが、夢というのは自分の経験した精神的にたいへんなこととか辛いこと、何かひっかかってしまったものを、うまく処理をするための心の(脳の?)働きであるらしい。どんな人間でも日々経験するようなさまざまな日常の圧力から自分の自我を保護するために、人は夢を見る。この機能が完全に遂行されるためには、夢を見た上でそれが忘れられることが必要なのだ、とその人は言った。そのために夢ははじめから忘れられるように作られている、夢を思い出そうとしてもすぐ忘れてしまっていたり、なかなか思い出せなかったりするのはそのためだ、たまにすらすらと夢を思い出せる人がいるが、あれは一種の精神的な病で、この機能に障害がある人だ。夢は忘れられなければならない、それを無理に思い出そうとすれば、とやけに芝居がかった口調でその人は言ったのだが、あなたは自分の心を、自我を、傷つけることになる。
 これが正しいことなのか、妥当なことなのかをわたしは知らない。どの学説に基づくのかも知らなければそもそもこうした心理学というのが正しいものなのかわたしはまったく確信を持たない。だがここで言われたことは、かなり的を得ているのではないかという感覚がわたしの中にはある。何の根拠もないことでただの体感でしかない説明もできないことだが、少なくともわたし自身の体験の中に限っていえばあたっているのではないだろうかと思わされる。
 何かを語ること、書くことというのは、ここで言われているような、夢を見ること、夢を思い出そうとすること、夢を記録しようとすることと、わたしにとってはほとんど同じことなのだ。夢を見るのは痛いことだ。逃れられないような現実の生々しさが夢にはある。そして起きると、どこにも落ち着くことのできない、現実感のない日常のどうしようもなさを突きつけられる。わたしはたぶん現在を生きてはいまい。どうしても書かなければならないというわたしの中にある何かは、こうしたことと間違いなく関係している。それがどういう脈絡なのかわたしにはまったくわからない、だが、わたし自身の体感としてそれはつながっているのだ。もはや誰かにそれが伝わるとは思うまい、人に理解されるような言葉でそれを説明するすべをわたしは持たない。だが、断片でもいい、わたしは語らなければならない。夢は体験の中にあり、過去とは記憶のことである。自分の無残な体験を、その体験の中にあるものを、わたしは過去にしてしまうことを拒絶しているのだろう。その体験の中にあるものがあまりに痛々しく、けれどどうしても手放すことのできないもので、わたしはそれを過去としてしまうことができないでいる。
 この五年以内にあったことをほとんど夢に見ないのは、きっとそのせいなのだろう。どうしてもそれを過去とすることが、できないでいるわたしがいるのだ。まして終わったことにするなどどうあってもおさまらないのだ。だが、それらは全てわたし自身の手を、とうに、離れているというのに。過去を過去にできていないから、わたしの現在にはまるで現実感がないのかもしれない。だが、もう終わってしまったことなのだ、どれほど、きらきらと美しく輝くかけらが、この手の中に残っていたとしても、それは今のわたしの現実ではないのだ。どうあっても戻れないところから、この手にきらめく水銀の粒がふりそそぐ。けれどそれは幻でしかないのだ。わたしは過去を、わたしの過去にしなければならない。
 わたしがどこかで死に囚われて、現在に生きるのをやめたとき、夢の機能はわたしを見捨てたのだろう。もう普通のやり方ではそれを過去にすることはできないのだろう。だからわたしは語らなければならない、わたしの中にある、いまだつかみ取ることができないでいる、それを物語とすることで、わたしの歴史を取り戻さなければならないのだ。

*1:この夢については9月7日の日記から、その背景となった事実関係を書きはじめようとするのだが、この追記をした10/4の段階になってもまだ、夢自体はおろかその事実関係すら書き終えていない