大食

 異常におなかが減った。夕食は結構いっぱい食べたのに。珍しいことである、最近では食欲がほとんど無いのが常態だった。
 数年前くらいまで、わたしはかなりの大食漢だった。たぶん今の数倍は食べていたのではないだろうか。バイト先の昼食時にわたしが買ってきた量を見て、それ本当に一人で食べるの、とよく言われた。弁当屋の大きめの弁当を二個とクレープなど甘物を何か、多いときにはそれにハンバーガーが加わった。今もあるかは分からないが、その頃わたしがバイトしていた所には、当時としては関西には珍しくウェンディーズの店舗があった。けっして美味しいとは言わないが、おなかも膨れるし食べれない味ではない。他に何も買わない時には多いときでハンバーガーを五、六個くらい、それにポテトとドリンク、帰りの売店で甘物を買って事務所に帰った。お店の人はきっと数人分のお使いだと思っていたに違いない。ドリンクやポテトの数でばれていたのかもしれない。これも塩辛いだけでそんなにおいしいものではないのだが、この店にあったクラムチャウダーが好きだった。置いている季節はいつも買って帰った。わたしはチャウダーのような種の煮物に目が無い。まして貝で出汁をとるものは抗い難い魅力がある。たとえそれほどおいしくなくとも満足してしまうのである。
 もう一年経つだろうか、京都にもウェンディーズができた。ロッテリアが潰れた跡にまたハンバーガー屋ができたのである。向かいにはマクドが建っている。できた頃に懐かしさで久しぶりに入りチャウダーを頼もうとしたら、そんなメニューは無いと言われた。もしかしたらこの店舗だけのことかもしれないと、店員に聞いてみたのだが、そんな商品は聞いたことがないという。わたしがバイトを辞めてからの月日の間にどうもメニューから消えたらしい。確かにあの塩辛さでは、昨今の減塩ブームのさ中にそう売れはしなかったのだろう。
 そのバイトを辞めた直後から、煙草を覚えてわたしの食べる分量も少しずつだが減っていった。今は普通の男性と同じかやや少ないくらいである。わたしの大食のさまを見て、若い頃はいいけれど、二十歳も半ばを過ぎると太るよ、とよく事務所の人が言っていた。わたしはどれだけ食べても太れなかった。典型的な痩せ型で、見るからに細い体型をしていた。食事量が減ったことがあるのだろうが、今もほとんど変わらない。社長秘書をしていたその人は、事務所のある人を指差して、彼も若い頃はとてもスリムで格好良かったんだから、といつも笑った。指の先の彼は静かに淡々と叱るため社員みなから怖がられてた。まだ三十過ぎたくらいで、だがその若さで社長の片腕のような役割をしていた。太っていたが背が高く、腹がでっぷりと出るありがちな太り方ではなかった。かといってがっしりしているわけでもなかった。痩せていた頃はハンサムだったと彼女はため息をついたのだが、その時も十分ハンサムだった。全体的にぷくぷくとして、愛嬌もあるが貫禄はさらにあった。体重はどのくらいだろうか、三桁近くあったのではないだろうか。いつも静かな声で怒っていた。遊びの席に座ったり、お酒を飲んでいる場では饒舌になり生き生きと楽しんでいたのだが、そんな時でもいつも冷ややかなものを持っていた。彼が冷静さを崩すのをわたしは見たことがない。それは冷酷さとも違っていた。常に遠くから穏やかに見つめる目を持っていた。無感情でもあった。何も差し挟まないような視線だった。相談事には客観的に、けれど親身に応対していた。彼のその態度の正体が、まだ二十歳前だったわたしにはまったく分かっていなかった。ただその冷たさを恐怖していた。
 事務所から消えて関係者とも疎遠になり、煙草を吸い始めた頃から食事量は減り続けている。かつての大食は影もない。わたしはまだ彼のようには太れていない。