妖精のいる居間

 眼鏡が朝から見つからない。わたしは普段眼鏡をかけない。それに何か理由やこだわりがあるわけじゃない、ただ眼鏡をかけるという習慣が自分の生活の中に根付いていないというだけである。大学入った頃の視力は左右とも2.0を越えていた。ひそかにそれを自慢にも思っていた。同学年のほとんどが眼鏡かコンタクトを必要としていた。TVゲームをする習慣がまったくなかったせいだろうか、わたしの周囲は子どもの頃からブラウン管を見つめ続けてきた世代である。彼らが小学生に上がると同時にファミリー・コンピューターが発売されて、それからゲーム機の進化と並行して育ってきた。初めは機械を持っている誰かの家に集まって、交代で遊んでいたようだが、そのうちに誰しも持っているようになり、むしろ交流はソフトの貸し借りや同じゲームの進み具合を競うようになった。彼らを羨ましく思う一方で、何が楽しいのかいまいち分からないというのも正直なところであった。年齢も十代に入り男は男の子同士、女は女の子同士という意識が固まり始めるようなその頃に、わたしは女の子の方のグループに組み入れられることが多かったからかもしれない。そうしたゲームをやっているのは、少なくともわたしの周囲では男の子だけだった。――思い返してみるに、正確には、どちらのグループにも組み入れられたことは無いのだろう。時によって男の子も女の子も関係なく(時には、学年も超えて)、いろんなところに誘われたが、どこへ行っても必ずお客さん扱いだった。その集団のレギュラーではなく、その時だけ遊びに来ているゲストの位置にいつもいた。それでいい思いもたくさんしたし、だからどうこうと言うわけでもないが。考えてみればその当時、友だちといえるような友だちはほとんどまったくいなかった。わたしはどのグループにも、たぶん属していなかっただろう。
 それにしても眼鏡が出てこない。十代のうちから眼鏡やコンタクトをつけている人はたぶんそんな習慣ができるのだろうが、朝起きたらまず顔を洗って眼鏡をかけてとそんなルーチンはわたしには無い。わたしが眼鏡を必要とするのは自動車の運転とパソコンの画面だけである。あとは普段は使わない。本は眼鏡無しでも読める。ディスプレイは眼鏡無しでは多少見づらいのでかけている。最初の大学生活の終わり、理学部を出て文学部に入った頃に目が悪くなっているのを自覚した。結局、免許の更新の際に必要に迫られて眼鏡を作った覚えがある。その眼鏡は今でも現役である。運転用が当初の目的だったので、脱着式のサングラスがついている。もっとも、その直後に視力ではない方面で、生まれつき目に障害があることが分かり、以来車もあまり乗らなくなってしまった。なのでこの初代の眼鏡は今はもっぱらパソコンに向かう時に使われている。二代目は青ぶちの眼鏡で初代よりやや度がきつい。外出時に持ち歩くのはこの安っぽい眼鏡の方である。オモチャみたいなプラスチックの太ぶちで、その俗悪さが気に入っている。とはいえこれは度がきついので滅多にかけない。慣れの問題かもしれないが、わたしは眼鏡をつけて歩いているとそれだけで、ちょっと乗り物酔いしたようになってしまう。これを使うのは大教室の遠くのホワイトボードなど、そういうものを見るときだけで、ほとんどオペラグラスと変わらない。あまり眼鏡の用をなしていないことになる。
 しかしいったいどこに置いたのだろうか。昨日は随分早く就寝した。たいていは洗面所か、PCの周囲などにあるのだが。夜中途中で置きだして、しばらくぼーっとしていたが、そのまままた寝直して結局半日ほど眠ってしまった。その置きだしたときに使ったのだろうか。眼鏡をどこに置いたかの記憶がまったく欠けている。部屋を眺めまわしてもありそうなところに見当たらない。*1

*1:結局、先ほど食器棚に陳列されているのを発見した。洗った皿などと一緒に丁寧に並べてあった。この部屋はしばしば、こういうわけの分からないことがある。