楽園の言語

 6/16「思考の肉体」の続き。


 前回さわりとなるようなことを書いた。直後の記事で述べたように(それは、情けない話だがいいわけに過ぎない)、今なんとしてもはっきりさせておきたいことが自分自身の中にあって、そのために始めた話題であるのにどの一つにも辿りつけないうちに、それどころか一般論めいた話を抜け出せないままに記事を閉じた。
 そんなものであったにもかかわらず、幸運にもいくつかの示唆的なコメントやトラックバックを頂くことができた。またそれらとは独立に、日ごろ講読させていただいていたり、あるいはたまたま訪れたようなところで、考えを新たにするためのヒントを拾わせてもらったりもした。それらをもとに、今一度、続きを書いてみようと思う。


 前回の記事に関して、killhiguchiさんがトラックバックをくださっている(6/18「思考と言語」、「野望、あるいはベイトソンと記号学と精神分析と認知言語学」)。似た問題を言語の方から考えた記事でわたしには興味深かった。だが残念ながら、内容や結論という以前に根本的なスタンスの違いによってわたしとはまったく相容れないだろう。
 言語には多くの側面がある。前回の記事においては、そうしたさまざまな要素(あるいは、いわば階層的なもの)をすべからくひとからげにしてわたしは語った。そのために混乱しがちな文章であったことは否めない。もちろん厳密な議論を求めるならば、言語に限らずあらゆる用語で細かく分類・定義していく態度というのは必須だろう。しかし今回、わたしがしようとしていることはそんな大そうなことではない。例えば一般的な言語観そのものも、わたしの興味の内には入らない。もっとこじんまりとした、わたし自身にしか通用しないようなことである。そもそもわたしは分類やモデル化というものが嫌いである。これは卵料理が嫌いと言うのと同じで、単なる好き嫌いの問題である(さらに言えば、食わず嫌いかもしれない)。嫌いであるし、どうにも胡散臭いと思っている。分類する、できるだけ細かく、微に入り細に入り、そしてそれぞれに名札をつける。丁寧に並べてモデルを作り、その微細さに何かやり遂げたような気にもなり、名札や分類の下にあるものまで考えず、そこで満足して終わる。わたしも元数学屋として細かく分類してみること自体の楽しさは否定しないが、そんなお遊び以上のものは稀である(さらに言えば、細かな分類から作られたモデルというのは、得てして数学的に美しくない)。どうもわたしが分類などを好きになれないのはこうしたことが原因である。そして何より今回語ろうとしたことに忠実であろうとするならば、これら表層的なお遊びは何より拒否すべきものだろう。
 とはいえ、ものがものであるだけに、やはり最低限のモデル化については避けられないのではないか。また用語や用語に類するものも(その厳密な定義にまでは踏み込まないとしても)ある程度は使わざるを得ないとも思う。正直、このあたりの態度を迷っている。わたしは厳密さも、さらには一般論も求めていない。そうしたものを期待する向きには申し訳ない話だが、わたしはわたし自身のこと以外には何の興味も持っていない。自分の思考の中にあらわれることや、自分自身の使う言葉にのみ限ったことを語りたいというだけである。


 ひとは言葉で考えるというのは十分魅力的な命題である。そこにかすかな違和感を感じながらも、少なくともわたしにとっては、非常に心惹かれる観念であった。それで何かが説明されるような気がした。解決まで与えてくれるようなものではなかったが。今でもわたしはこの考え方から十分に逃げ出せてはいまい。だから繰り返し、自分の言葉について考える。昔からことあるごとに考えてきた。言葉について。さらに限定するならば、言葉にすること、つまり語ることについて。考える――言語において考えるとは、わたしにとっては言葉になっていない物事をなんとか言葉にしようとするのとほとんど同じことだった。そして理解するとは自分の言葉にすることだった。だが言語の不自由さに絶望したのはいつからだったか。
 わたしにとって言語とは、そのためにはあまりにも不自由でままならないものであった。結局、それが問題だった。わたしの言語は不自由極まりないものだった。そう思うようになった頃、たまたまベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読んだ。これは短いエッセーで、これだけで著者の考えたことが明らかにされるものではないし、ましてわたしに理解できるようなものではない。だが、少なくとも自分が感じた言語というものの不自由さが、あるいはそれに近いものが、この著作の中には書き込まれているような気がした。
 この批評家がこの中に書いていることを、わたしにできる理解の範囲でこれ以上ないくらい簡単なお話にしてしまうなら、たぶんこんな物語になる:*1


 まず彼は理想的な言語というものを想定する。ユダヤ人である彼にとり、理想的な言語とは神の言語に他ならない。あえて神話風に語るとすればこんなところか――かつて理想的な言語があった。その言語では、すべての事柄を余さず捉え、話者が考えていることをそのまま言葉に表すことができる。それを聞き手は何の解釈の必要もなく自分の内に取り込むことができる。つまり完全な伝達が可能なのである。神は人びとにそんな言語を与えたが、しかし人は堕罪した。人の犯した罪により、完全であった言語は二つに大きく分かたれた。すなわち、いわゆる普通の、われわれが話したり、書いたりする言語(ベンヤミンにおいて、正確にはもう少し広い範囲を含んでいる。それについては後述)と、それぞれの人、個人個人の中にしかない、その人だけの言語である。
 前者は神の言語から、それが外に出しうるものであること、つまり声に出して話したり、何かを語ったり、表現したりすることができるという性質を受け継いだ。しかし、それが伝えうるものである反面として、その完全性、すべての事柄を余さず捉えること、そしてすべてをそのままに言葉にすることができること、については失ってしまった。
 後者、それぞれの人がそれぞれ持っているような言語、これにおいてはその完全性は前者ほどには失われていない。少なくとも、その人の内ではある範囲までは十全に、ものごとを捉え、表すことができる。しかしその言葉は他人に伝えることができない。声に出すことも字に書くことも、そもそも外に出すことが不可能なような言語である。もしも伝達を求めるならば、前者の言語にいわば翻訳されなければならない。
 この二つの関係はバケツとプールに似ている。後者の言語にあることをプール一杯の水と考えてみる。これを誰かに伝えるためには前者の言語に翻訳されなければならない。前者はいわばバケツである。バケツにプール一杯の水を汲むことなど当然できるはずも無い。だからその一部だけをバケツに入れて他人に渡すことになる。渡されたものは、それを自分の言語(その人自身の後者の言語、いわば形の違うまた別のプールである)に翻訳するため、その少ない水を解釈によって水増しをしてプールを満たす。
 ベンヤミンが、この言語の堕罪をどちらに――つまり、エデンからの追放か、あるいはバベルの塔の崩壊か、そのどちらになぞらえて考えたかは分からない。ただわたしの感想としては、明示的に言語の混乱が書かれているバベルではなく、むしろエデンからの追放、禁じられた知恵の実を食べたアダムとイブの追放と原罪の獲得、をわれわれの言語の不完全さの由来として考えていたのではないかと思う。というのは、その神の完全な言語の背景に神のものさしとでも言うべきものが想定されている気がするからだ。何かを言葉にするならば、どの言語においてであれ、その何かを必然的に価値評価しなければならない。つまり、どの言葉にするのか、どのように言葉で捉えるのか、ほとんどの場合その判断は意識されることもなく終わっているであろうが、いずれかの基準、ものさしでもって測られなければならないだろう。かの言語が完全であるのは、このものさしが神のものであるからではないか。すなわち、個々によって違うことのない、神によって与えられた、統一された基準の上で組み立てられた言語であるからではないか。
 エデンの中央にあるという禁じられた実がなる木のことを、英語で"the tree of knowledge of good and evil"、つまり「善悪の知識の木」という言い方をする。この木の実を食べれば善悪についての知識を得る、つまり何が善いことであり何が悪いことであるか判断できるようになるからである。この善悪というのは、あらゆる価値の代表ではないか。ならば善悪の知識とは、価値を評価する基準の代表(象徴)とも言えるのではないか。このように考えるならば、禁じられた木の実を食べたということは、彼ら自身の価値基準を獲得することと捉えられるだろう。アダムとイブは、神の(神によって与えられた、神のものとまったく同一の)価値基準ではなく、彼ら自身の(それはもちろん、人によってそれぞれ異なる)ものさしを手に入れたことになる。それはあるいは神からの独立とも言いえることで、少なくとも現代的な価値観からすれば、喜ぶべきことかもしれないが、だが価値基準を同じくすることによって成り立っていた、神の言語の完全性は同時に損なわれることになる。先に述べたような、二つの言語の側面へと分かたれてしまうことになる。


 このエッセーにおいてベンヤミンが述べたことを、大雑把に語るなら大体こんなところであろう。あらかじめお断りしたように、随分と話を端折り、簡単な、それもお話にしてしまっている。物語を易しくするために、もとの議論にあらわれる「名づけ」という重要なトピックについてはまったく省いてしまったし、何よりわたしのいい加減な解釈であるので、真面目に読んでいる方々にはこれに不満も多いだろう。ともかくも、わたしは彼の言語観をこんな程度に理解したし、それは不十分な理解であっただろうが、それでもわたし自身が抱えていた言語の不自由性へのはがゆさとでも言うべきものを、一応説明してくれた。
 なおこのエッセーの表題が表しているように、彼は言語という概念を、われわれが普通に言うところの言語、つまり日本語とか英語とか、よりももう少し拡大して考えているようである。わたし自身も同様に(というか、ベンヤミンの影響を受けてと述べた方が公平であろう)、言語を考える時にはそうしたものまで含めているが、例えば手話や、もっと離れてしまえばパントマイムの類であったり、あるいはなにげないものまで含むいろいろなしぐさ、また絵画や音楽などといった芸術作品なども、そうした様々な、何かを他人に伝えることができるような媒体を、すべて言語の一種として捉えている。これまでの話にあらわれる言語も、これらを想定に入れて語られている。


 ついつい話が脱線し、また長々としてしまった。最初にこの記事を書き始めたのは、タイムスタンプによると10:21のはずである。既に日付も変わり午前0時半を回っている。断続的に書き足しながらではあるが、優に14時間同じことを書き続けていたことになる。どうにも、わたしは何かを語るのが下手であるようだ。以前にもこんな風に、何日かおきに書き続け、結局いまだ書き終わっていない事柄があった(例えば、9/7「棘」から続く一連の記事など)。そうしたものは、たいてい、わたしとしてはどうしても語りたい、なにをおいても語っておかなければならないようなものであることがほとんどなのだが。しかし、そうしたものほど語るのは難しいということか。これにせよ今日もまた書ききることはできないようだ。このベンヤミンの言語観へのわたし自身の共感と、またそれに感じざるを得ない限界については、後の記事にゆずることにしよう。

ベンヤミン・コレクション 
ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味


作者: ヴァルター・ベンヤミン、
Walter Benjamin
出版社: 筑摩書房
発売日: 1995/06
メディア: 文庫

*1:所詮彼の専門家でもなく、ましてや日本語でしか読んでおらないので間違いや誤解も多いかと思いますがどうかご容赦ください――かつて4ページほどの小品を読まされて、もう二度とベンヤミンは原語で読むものかと決意したもので。