六月の鐘

 出かける予定が夕方になって土曜は午後まで片づけをしていた。大掃除の名残というわけではないが、クローゼットや衣類入れの中を総ざらいしてクリーニングから帰ってきた衣服を片づける。畳んであったYシャツやパンツももう一度開いて畳みなおして、ベッドの下の収納にはもう入りきらないというほどの夏物を詰めた。どうやってこれまで衣類が納まっていたのだか皆目見当がつかない。引き出しからあふれるほどに詰め込んで、実際麻のシャツ裾が数センチ顔を出しているのに、まだ紙袋ふたつ分がそのまま残ってしまっている。どうしたものかとりあえず部屋の隅、紙袋ごと立てかけておく。少しでもたくさん入るようにと実に細やかに畳んだのだが。そんな作業もたまにはいい。だがどれほどきちんとしたところで、またすぐ荒れ果ててしまうのだが。結局夜に奥にしまったタオルケットを出そうとしてすべて引きずり出してしまった。まこと大掃除には果てがない。それからややぬるめの風呂につかり、まだ暑いさ中に河原町に出た。よく晴れている。よく晴れすぎている。水不足は大丈夫なのかとそんな話題も飛び出すほどに。三条通りは風があり気温の割りにはこの夕方は過ごしやすい。日陰になったホテルの縁石に腰をかけ町行く人を眺めると数人に一人は紙袋を下げている。紙袋はそれぞれに意匠が違う。緑地に古風な紋を浮かべたもの。数本のラインの都会的なデザイン。切り立って細長なもの。口からは瓶の頭がのぞいている。厚手のもの、薄手のもの。おかしな話だがどれとして同じのを見た気がしない。袋を持つ人持たない人も革色手すりを明滅させて左右に流れ過ぎていく。彼らは歩いている。いつまでも歩いている。なのにどうして止まって見えるのか。確かに流れていくはずなのに、回転プロペラの錯視のようにひとひとひとと彼らはいつも静止している。あるいは彼らの方が背景であるように。近くの教会が六時の鐘を鳴らす。騒がしい形の季節の果物を打ち鳴らした時刻に気後れする。あまりにもさわやかな匂いに輝いている。わたしが探そうとしたのは、そしてもみ消したのはなんだったのか。青果屋を出ると空はもうダークブルーの顔をして、Uの字あてなく歩き回った挙句に丸善に着く。それには煙草二本の費用がかかった。一本は足元まで吸い込んで、もう一本は頭まで、ショートホープが唾液と絡み具象的なガムになる。木曜からワゴンセールをしているらしい。毎年品揃えが変わらないのでそんな熱心でもなくなったが三条あたりからついてきた鳴り響く頭痛ががらがら鳴らす。今日でなければ(今でなければ)出会えない(出会わない)一冊があるような気になる。ワゴンと手の平の交互にむけて中指の爪を突き刺しながら錐の目つきで洋書を睨む。何も網にかからない。わたしは歯がゆさに拳を叩く。どこかにその一冊があるはずなのだ。頭痛ががんがん泣き叫ぶ。洋書を見てワゴンを通り写真集や画集を抜けて文庫フロアまで流れ着く。エスカレーターの手すりに八つ当たりしながら。平積みも棚もどこにもなにも見つからない。頭が締め付けられるように痛い。どこかにその一冊があるはずなのだと、もはや狂った信念として探しているが何もぴんと来るものはない。小島信夫に狂信者の視線を叩きつけると、遠く棚の背後に消えて、ここにいるはずのない人が視界の隅を横切った。独特の絵模様の着こなしでわたしが見まごうはずもない。だが、かすかな期待と驚きにまどい、麻痺した時間から醒め果ててみるともうどこにも見当たらない。このわずかな隙間にいなくなるはずもないのだが。ひとひとひと、本棚の隙間に、それぞれひとは詰まっているがどこにもその人は見当たらない。一見似た、だが明らかにコントラストの異なったひと。子連れで、何かを教えながら歩く父親。あみ籠の手提げを持ったご夫人は新書コーナーを漁っている。どこにもいない。これは幻覚だったのだろうか。窓際河原町を見下ろすと扇に人群れが流れ出していく。信号が変わったとこなのだろう。どぶ川に流れ出す排水溝が脳裏に浮かぶ。その臭いまでもを再生して、一冊のことなどどうでもよくなり今更買ってもいなかったダ・ヴィンチだけ掴んでレジへ行く。海外の古本屋、目的を伝える前にこれだろうと出されたという教授の話を思い出し、たぶん今日しか出会えないような本があると思うのですが、どれか、わかりませんか、と店員を困らせてやろうか気まぐれを起こすがレジ打ちがあまり悪戯心をそそらない。すげなくあしらわれそうで結局雑誌一冊を手に店を出る。帰宅し誰も出ない電話三本をこなして(もう数日連絡を取ろうとしているのだが、いつかけてもいない。もともとそういうタイプなのだが)、それから忘れてはならないメモを書き、メモの使いみちがないことに気づいて厭になる。がんがん、河原町教会の鐘がこだましている。がんがん、がんがんと。日付が変わる直前頃にベッドに上がるがあまりに頭痛が激しくて、結局二時前に起き出てしまい今に至る。