案山子

 手元に読むものがなくなって、数日分自分の日記を見直していた。脈絡も前後関係も無いことばかりが並んでいる。昨日見上げた風景のように何もかもがいびつである。三条河原町を市役所方面へ上がっていくと、通りの東側、小さな教会を越えたあたりに古いホテルがある。そのあたりから対岸を見上げるとビルの背丈がでこぼこ模様を作っている。ひとつひとつ違う色で、たいていは似たような高さなのだが、ところどころくぼんで低くなっている。街中で空を見上げるのは楽しい。もちろんずっとそんなことをしていると、道行く人から変な目で見られてしまう。仕方ないのでときどき横に向き直ったり、滑空する鳥を眺めているふりもしている。あるいはそんな好奇の目を集めるためにわたしはそうしていたかもしれない。中には四五階くらいまで街中らしいスマートな雑居ビルだが、その上はアパートになっているものもある。趣もそこから変わり、接ぎ木された生活臭のわずかに漂う住居部分を取り外せるのではないかと思う。わたしの住む河原町の北のはずれでさえ、昼夜なく道はうるさいのに、この中心地に住む人は夜寝られるのだろうか。
 この夕方の雑多さのように、平均もせず繋がらない、でこぼこの文章が並んでいる。何を思って語ったのだったか。どれも、同じひとつのことを目指していたはずだった。そしてどれにせよたどり着けもしなかった。どこにも。それは乾涸びた死体群に似ている。みな同じ方向に頭を向けて、腕骨の許す限りに伸ばした手には甲斐なく掘った泥の名残が風にほどけて、十年前に生命をやめた枯れ根の繊維が五指をまだ絡め取っている。どれも同じ表情をしている。河原に転がる小石のように、形も色もそれぞれまったく違うのにすべての印象が同じであるのだ。苦悩に身をもだえ、だが苦悩の快楽に顔を引きつらせ、均一な眼差しで何もない空を睨み据えながら。早く腐ってくれればいい。案山子の死体処理夫は思う。顔を歪めて、だがその相貌はどこか彼らに似てしまう。